幸いです、義を求める人

「義」と聞いて、私が真っ先に思い浮かべるのは「義人はいない、ひとりもいない」という聖書のことばである。何と言うか、やる気を削がれるようなことばを初っ端に引用してしい申し訳ないと思うのだが、私がひねくれているだけなのかもしれないから、勘弁してもらうしかない。もっとも「義」という字は一般的に言って、良い意味で使われることが多いのではないだろうか。例えば、誰でも知っている言葉では「正義」という言葉がある。この字には、良いこと、正しいこと、理にかなったこと、などの意味が含まれている。

それでは幸いと義の間にどのような関係があるのかというと、マタイの福音書5章6節を見てみると分かる。つまり「義に飢え渇いている者は幸いです」ということだ。

さらっと読んでしまうと、正しいことを求めている人は幸いなる人なんだなぁ、で済まされてしまいそうな気がする。もちろん、それだけでも得るところはあるのかもしれないが、何だか物足りないような。「義に飢え渇く」とはどのような意味を持っているのだろうか。義とは一体、何に対する義であろうか。自分自身に対する義であろうか。それとも他人に対する義であろうか。義に飢え渇く、すなわち正しいこと、良いことを渇望するということは分かるのであるが、それを何に対して求めているのかが、いまひとつはっきりしない。それもそのはずで、それがここには何も書かれていないからだ。

何も書いていないから、何とでも言えるのかも知れない。しかし、キリストはどのような思いで、このようなこと言ったのだろうかと考えてみるとどうだろうか。

まず自身に対する義だとしたら、どうであろうか。自分が正しくあること、自分が良い存在であることを求めるということは、自らを向上させるということでもあり、間違ったことではないだろう。義を求めるということが、自身を一歩進めることであり、その一歩がキリストらしさに近づくための歩みであるとすれば、信仰を持つ者にとっては気にしておくべきことかもしれない。仮に信仰を持っていないとしても、自身の人間性をより良いものにしようと思うことは、それ自体が良いことであろう。

それでは他人に対する義とは何であろうか。人に義を求めるというと、二通りに解釈されてしまうだろう。ひとつは人が義であること、もうひとつは自分が人に対して義であること。普通の人間の感情というか希望としては、人に義であることを求めたくなってしまうことは、否定できまい。自分はともかくとして、他人が正しいことをしてくれたらどんなに良いだろうかと、意識してか意識せずか願ってしまうのである。しかしそれでは、自分の価値観で人を量っているということであって、人が自分の思う通りになって欲しいという、わがままの裏を返しただけと言えないこともない。そうだとしたら、人の目のなかに埃を見つけながら自分の目の梁に気付かないのかと言われたキリストのことばと相反することになる。ということは、他人に義を求めるということは、自身が人に対して、理にかなったことをするということになるだろう。何のことはない、そう考えてみると結局のところ自身に対して義を求めることと一緒ではないか。

ところが、この世には義人はいないのである。そう言われてしまうと、義を求めることに一体何の意味があるのだろうか。義に飢え渇いたとて、幸いになるどころか、むなしくなるばかりではないか。しかし義人がいないと言っても、正しいものがこの世に存在しないというわけではない。義なる人はいないというだけであって、義なる神は存在するからだ。

さて義に飢え渇いていることが、どうして幸いなのだろうか。本当の義を求めることは、すなわち義なる神を求めるということにつながっていくのではないだろうか。つまり、義を求めていけば、やがてその人は神にたどり着くことになるからだろう。ではなぜ神にたどり着くことが、人にとって幸いなのだろうか。なぜなら「その人は満ち足りる」ことになるからだ。神の義を求めるのであれば、神は惜しむことなく、その人の心を満たして下さるからなのだろう。