幸いです、心のきよい人

私もそうであるが、人というのは愚痴っぽいものである。何事も肯定的に前向きにとらえることのできる人も、世の中にはいるだろうが、そのような人でさえ、いつも変わらずにその姿勢を貫くことができるかというと、そうでもないだろう。人というのは、いつかどこかで必ず、もちろん程度の差はあるとしても、自分の境遇を悲観するものであろう。なぜ人は愚痴を言うのだろうか。これはあくまでも私の場合であるが、それは自身を顧みてどうこう思うからではなく、むしろ周囲を見て、自分と比べてしまいあれやこれやと不満に思ってしまうからだ。いわゆる、隣の芝生は青い、というやっかみでしかない。

そのようなわけで、不平不満を口にしたところで、ふて腐れてみたところで、何も物事は好転しないのである。人と比べなければ良いではないか、と言われてしまうと、確かにその通りなのである。ところが不思議なもので人というのは他人と比べてしまいたがるものなのである。なぜだろうか。人と比べることによって、自分の方が優れていることを知って優越感に浸ろうという隠された意図でもあるのだろうか。もちろんそれを意識して過ごす人はいないだろう。仮に、本当にそのようなことを考えているとしたら、単なるナルシストに過ぎない。しかし心の奥底に無意識のうちにそのような思いがあるのは、それはそれでしかたがないのかもしれない。

さて愚痴っぽい人でも、いやむしろ不満ばかり口にしている人はなおのこと、幸いな者になりたいと思うかもしれない。幸せになんかなりたくない、という人もいるかもしれないが、それはその人の選択なのでどうすることもできないが、幸せになることを望んでいるのなら、どうしたらよいのかを知りたいだろう。さて、今日の箇所はマタイの福音書5章8節である。「心のきよい者は幸いです。」

心のきよい者とは、どのような人のことだろうか。心がきよいと聞いてまず思いつくのが、それは私ではない、ということだ。先にも書いたとおり、事あるごとに、私はぼやいてばかりだ。それどころか、何もなければないで、何もないことを不満に思ったりするのだ。私のように始終ぼやいてばかりいる人間の心がきよいなどということは、まずあり得まい。むしろ鬱屈した思いが心にあるから、何だかんだと不満に感じることがあるに違いない。きよい心の持ち主は幸いになるかもしれないが、鬱屈した心情の持ち主は幸いにはなれないということになるのだろうか。確かに、心の中に陰るところがなければ、不平不満を持つこともなく、それはそれで幸いなことかもしれない。

ではどのようにしたら、私のような凡人が、きよい心を持つことができるのだろうか。まずそうするためには、心の中の陰鬱な思いを何とかして消さなければならないだろう。しかし人がどう頑張ったところで、果たしてそれは実現可能なことなのだろうか。努力次第で心の闇を除くことができるのであれば、それこそ今頃私はもっと幸せに感じていることだろう。ところが実際はどうかというと、齢を重ねるごとに愚痴っぽさが増しているような気がしてならない。人というのは、自分自身の心すら自由に変えることができないのかもしれない。

自分でどうすることもできないのであれば、誰かに頼むしかないだろう。では、誰に頼んだらよいのだろうか。家族か、それとも友人か。否、誰に頼んでも無理である。そこにはわずかに期待する余裕さえない。人は自分の心を変えることすらできない。ましてや、他人の心を変えることなど、どう考えても無理である。誰にも頼ることができないのであれば、もはや神に頼るしかないのだろうか。全能である神であるなら、人の心を清めることもできるはずだ。

キリストは幸いについてこう言っている。「その人は神を見るからです。」これは心がきよくなってから、初めて神を見ることできるという意味ではないだろう。神を見るための条件が心のきよいことだとしたら、この地上に誰一人としていないだろう。そうではなくて、人が神を見たい、神を知りたい、神と出会いたい、そう思う過程において、神が人の心をきよめて下さるのではないだろうか。これが、幸いと呼ぶにふさわしいことであろう。