幸いです、平和をつくる者

一般的にクリスチャンと聞くと、平和を好んでいるような印象を受ける。などと言うことを書いてしまうと、まるで人ごとのような気もするが、かく言う私もクリスチャンであるからには、平和を好んでいるのだろうか。私の気性からして、荒っぽいというわけでもなければ、人とのいざこざを好むというわけでもない。むしろ波風立てぬように、あれこれ気を遣いながら過ごしているところが大きい。だからと言って、私が平和を好んでいるということにはならない。むしろ他人との干渉が面倒なだけだったりするのだ。

それにしても、平和とは一体何であろうか。毎日使うような言葉ではないけれども、普通に耳にする言葉ではあるので、あまりその言葉の意味することを真剣に考えたこともないように思われる。改めて考えてみるに、平和とは、争いがなく、穏やかな状態を表しているのだろう。

ところでマタイの福音書5章9節にはこう書いてある。「平和をつくる者は幸いです。」

キリストのことばに従うのであれば、平和を作り出すことが、その人自身にとっての幸せにつながるということなのだろう。それにしても、平和が何であるかを分かったとしても、果たしてそれをどのようにして作るかということが、誰に分かるのだろうか。そもそも、そのようなことが可能なのだろうか。もし仮に平和を作ることができたとしても、その恩恵を受ける周囲の人々は幸せになるのかもしれないが、果たして自分がそれで幸せになれるのだろうか。考えてみると、疑問がいくつも浮かんでくる。

それにしても、平和と聞いて、まずぱっと思いつくのが、世界の平和というフレーズであるが、それを聞いて、何ともチープに思えてしまうのは私がひねくれ者だからだろうか。自分で書いておきながら、しらけてしまいそうだ。もちろん、その考えは崇高だと認めるが、現実に則して考えてみると、様々な価値観を持った者同士が互いにぶつかりあっては離れていくこの世の中にあっては、平和など成立し得ないことを知るのだ。だから夢想的とでも言おうか、現実離れしているとでも言おうか、何だか聞いていて恥ずかしくなってしまう。どう考えても、世界の平和などというものを作り出すのは不可能である。

その次に思い浮かぶのが、家庭の平和である。家族円満、夫婦円満というものだろうか。他人同士ではない、身近な者同士であるから、互いに理解しあうことができるだろうし、それならばもめることもないければ、常に心静かに過ごすこともできるだろう。などと考えるのは、とんでもない。もちろん、それが理想的なことであるだろうが、家庭といえども、夫婦といえども、親子といえども、言うなれば世界の縮図である。時にはいざこざもあるだろう。もちろん火種になるようなことがなければ、平和を保つことができるかもしれないが、それは平和を作るというのとはちょっと違うだろう。

さてはて、人は誰に対して平和を作ることができるのだろうか。世界の平和は不可能、家庭の平和は不完全、それでは自身との平和だろうか。広い世界を徐々に縮めていくと、最後にたどり着くのは自分ひとりの世界である。いざこざの種となる世界や他人との関係がないから、これでこそ平和を作ることができそうなものであるが、しかしひとりだけで平和になったところで、何か意味でもあるのだろうか。

などとあれこれ考えてしまうと、結局のところ人が平和を作りだすのは無理に思えてしまうのだ。

それではなぜ、平和をつくる者は幸いなのだろうか。キリストはこう言っている。「その人は神の子どもと呼ばれるからです。」

平和を生み出す者は、神の子どもと呼ばれるということなのだろう。裏を返せば、神の子どもであれば、平和をつくることができるのかもしれない。それでは、神の子どもとなるためには、どうすればよいのだろうか。そのためには、まず神と和解しなければならない。神に対して抵抗することをやめ、神と穏やかに時を送ろうと求めるのであれば、それが神との平和な関係になるのだ。他の何者とでもなく、まず神と良好な関係を持つのであれば、やがては人とも平和を作れるのだろう。それが幸いなのである。