幸いとは

どのようにしたら、人は幸いになれるのであろうかを今まで見てきた。それでは、幸いとは何であろうかというのが気になるところであるが、それもまた今まで見てきた。改めてここでまとめると、幸いとは……天の御国に入ること、慰められること、地を相続すること、満ち足りること、あわれみを受けること、神を見ること、神の子どもとされることである。ついでに言うと、天の御国に入ることは二回ほど言及されている。

あまり深く考えずに、どうしたら幸せになれるだろうかとあれこれ思いを巡らしてみると、ちょっと違う答えになるかもしれない。幸いとは……宝くじで一等や二等が当たること、うまいものを腹一杯に食べること、誰からも邪魔されずに心行くまで寝ること、日がな一日本を読むこと、興味有ることを追求すること、という具合になってしまう。何とも自己中心というか、自分の欲望のままである。普通に考えれば、自分の欲求を満たすことさえできれば、それなりに満足を得ることができるだろう。足りなかった何かが満たされれば、それが幸いと思ってしまうのかもしれない。そう考えてみると、幸いが何であるかというのは、人によって異なっていても不思議ではない。人によってそれぞれ求めるものが違っているからだろう。

しかし人は自分が求めているものを手に入れたときに、本当に幸せになれるのだろうか。その欲求が満たされたとき、人は本当に満足することができるのだろうか。むしろ人は常に何らかの欲求を持っている生き物なのではないだろうか。美味しいものをどれほど食べたところで、いつまでも舌に味が残っているわけでもなければ、胃袋が常に満たされているわけでもない。味はものの数秒で、満腹感ならばもうちょっと長くて数時間で消えてしまう。美味しいのであれば、それだけ長い間記憶に留まることはあるだろうが、だからといって腹が減らないというわけでもない。腹が減ったら減ったで、また何かを食べたくなるだろう。そして―これは私の場合なのかもしれないが―どうせ食べるのなら、せっかくだからうまいものを食べたいと思うのだ。自身の欲求を満たすことが、幸せなのであれば、幸せというのは長く続くないものであろう。人はいつも己を満足させるものを探し続けなければいけない。

果たして、それが本当に幸せかどうかというと、どうも違うような気がする。自己の欲求が満たされるのは、幸せとは言わずに快楽というのではないか。

それではキリストが言うところの幸いとは、いわゆる私たちが期待するところの「幸い」とどこが違うのだろうか。まず思いつくことは、私たちの考える幸せとは、何かが満たされることが条件になっている場合が多い。もちろんすべてがそうだというわけでもないだろうが。一方キリストの言う幸せというのは、確かに「満ち足りる」ということもあることにはあるのだが、それだけに限定されていない。「天の御国に入る」「地を相続する」「神を見る」「神の子となる」というように、状態の変化を表している方が多い。すると「幸せ」というのは、自分が何を手にするか、ということよりも、自分がどうなるか、ということに影響されるのではないだろうか。何かを手に入れたとしても、遅かれ早かれそれは消えてしまい、元の木阿弥である。しかし自分が変わるということであれば、これはどれほど時が経とうと、うわべだけの変化でなければ、いつまでも続くものである。それこそ風化してしまうものではない。消えてしまうものと、消えないもの。比べてみれば、どちらがより好ましいものであるかは一目瞭然であろう。どちらを求める方が益となるか。もちろん、後者であろう。

そのような幸せを楽に手に入れるための道は厳しい。信仰者にとってはなおさらである。キリストはこうも言っている。「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたり」することにも耐えなければならないのだ。そうすれば、やがては喜び踊ることのできる日がやってくるのである。しかし、そうすることで、人は天において大いに祝福されることになるのだ。

幸せとは何であるか。いつまでも続く幸せを求めるのであれば、それは自分が変わることで得られるのであろう。そして人を内側より変えることができるのが、神なのである。神抜きにして、本当の幸いというのは存在し得ないのだ。