地の塩

ここしばらく「幸い」という言葉を中心に見てきたわけだが、もとを問いただせば「山上の垂訓」を丁寧に読み直そうとしていたのが、本来の趣旨であった。たまたま「幸い」というテーマで山上の垂訓が始まっただけである。というわけで、信仰者としての生き方について、キリストがどのように教えているかを引き続き見ていきたいと思う。もちろん、「幸い」が何であるかというのも、信仰者の生き方においてはそれなり重要なことなのであろうが、キリストがまだまだ語るのをやめないところを見ると、必ずしもそれだけが重要ということではないのだろう。

さて、キリストは何と言っているだろうか。マタイの福音5章13節にはこう書かれている。「あなたがたは、地の塩です。」

なんと、私たちはこの世の塩なのである。とは言っても、これは私たちがぱらぱらと地上に散らされるということではないだろう。私たちが塩であるということは、すなわち私たちは塩気のある塩っ辛い存在であるということなのだろう。言い換えれば、私たちがその塩気を失っては、何の意義があるのかという訓戒も込められているのだろう。

そもそも料理にとって塩は重要である。少なすぎてもダメだし、多すぎてもダメである。ところで話は変わるが、料理について言うのであれば、私はどちらかというと濃い味が好みであるが、妻は薄味が好みである。そんなわけで、妻が作ったモノに、味が薄いと私が文句ばかりを言うものだから、たまに妻が気を利かせてちょっと濃いめに作ってくれるのはありがたいのだが……そのバランスが悪いのか、これはいくらなんでもしょっぱ過ぎるんじゃないかと思われるものが食卓にでてくることも往々にしてある。適度な味のバランスというのは難しいものなのだろう。とは言っても、塩加減の感じ方は人それぞれなのだから、仕方がないと言えば仕方がない。

しかし量の多い少ないはともかくとして、塩がまったく入っていない料理というのは、まず考えられない。料理を美味しくするために、塩は必要不可欠なのである。これは日本人ならよく分かる話であるが、炊きたてほかほかの白いご飯に、塩をちょろっと振りかけて食べるのは、実にうまい。塩に風味はない。塩には塩辛さのみである。この塩気が、ご飯の味を引き立てるのだろう。同じ塩気のあるものでも、醤油をかけたら、ご飯本来の味が失われしまい、もったいない。それを考えると、塩辛くない塩というのは、何の価値もないと言えるだろう。塩は、しょっぱいから良いのだ。

塩とは実に優れた物質で、単に食べ物の味を引き立てるだけの役目に留まらない。塩には殺菌、洗浄効果もあり、古来食べ物を塩漬けにしていたという。また食べ物に限らず、腐敗を防ぐ目的で、遺体なども塩漬けにされていた。またこれは私の経験から言えるが、歯磨き粉を切らした場合には、塩で歯を磨くこともあるし、濃いめ塩水でうがいをすることもある。こと日本では「清め塩」という考え方があるくらいだ。そればかいではない。世間では塩分控えもなどとまことしやから言われているが、塩分は人間にとって必要なものでもある。塩を摂取し過ぎると病気なるのは分かっていることだが、その反対に塩分が不足してしまうと、それはそれで危険なことである。暑い日が続く今日この頃であるが、大量の汗をかくと、水分と共に塩分も対外に排出されてしまうため、単純に水分だけを摂取すると、血液中のイオン濃度のバランスを維持しようと、体がさらに水分を排出してしまうために、熱中症を引き起こしてしまうという。適度な塩分を持ったスポーツ飲料が体には好ましいのはこのためである。

つまり塩というのは、人の営みにおいて欠かすことのできないものなのだ。それと同じように、信仰者の存在というのも、この世においては必要なものなのだろう。ただし、信仰者といっても、口でそう言っているだけでは意味がないのである。塩が重宝されるのは、その性質の故であろう。信仰者も信仰者として価値ある存在であるためには、まずはその信仰を維持する必要があるのだろう。その信仰が、信仰者自身を清め、また周囲を清めることにつながるのだろうし、人々の心の渇きを満たすための媒体となるのだろう。