世界の光

キリストは信仰者に何を望んでいるのだろうか。何を願っているのだろうか。人の視点から考えた場合、キリストを信じる私たちは何を目標に過ごすのが好ましいのだろうか。信じることは、あくまでも個人の意志にゆだねられているので、何かをしなければならないとか、何かをする必要があるとか、そのような義務を伴うものではないが、もちろん好ましいものと、そうでないものとがあることに違いはない。前回は、キリストに従う者として私たちは「地の塩」となることが望まれていると書かれていることを見てきたが、今回はその続きを見ていこうと思う。

マタイの福音5章14節にはこう書かれている。「あなたがたは、世界の光です。」

地の塩である信仰者が塩気を失っては意味がないのと同様に、光は輝いて周囲を照らさないと存在意義がないのである。15節には書かれているではないか。「それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。」つまり、明かりを灯して、わざわざそれを隠す者はいないということであり、明かりで周囲を照らすことができるような場所に置くのが普通ということだ。隠すくらいだったら、最初から明かりを灯すことはないだろう。そのような勿体ないことに利点は何一つないからだ。明りを灯すための油なり蝋燭なり電気なりが、無駄に消費されるだけである。

明りは照らしてこそ意味があるのだ。では私たちが明りであるならば、何を照らすための明りなのだろうか。それはここにも書いてあるように、世界を照らすための光なのである。

それでは世界を照らすとは、何を意味しているのだろうか……ということを考える前に、まずちょっと思い出すことがひとつある。たしか新約聖書の他の箇所で「世界の光」という言葉が使われていたような気がするのだ。私の勘違いであろうかと思って、調べてみたのだが、たしかに私の思った通りである。それはどこであるかというと、ヨハネの福音8章12節だ。そこでイエスはこう言っている。「わたしは、世の光です。」

なるほど、イエスは世の光である。そしてイエスを信じる者も世の光である。とは言っても、イエスを信じているからというだけの理由で、人は世の光になれるというわけではないだろう。たとえ「世の光」と呼ばれたとしても、その言葉の通りに世界を照らしていなければ、世の光としての役割を果たしていることにはなるまい。

キリストが話しているような世の光になるために、信仰者は物陰に隠れていてはならないということだろう。外の光も入ってこなければ、内側の灯りも漏れないようなところでくすぶっていては、光としての役割を担っていることの意味がなくなってしまうではないか。燭台の上の灯りが部屋のどこからでも見ることができるように、信仰者として生きる私たちも、周囲から見ることのできる場所にいなければならないのだ。キリストが自身を世の光と言ったのは、人々が暗闇の中を歩かずに済むようにとの考えからだった。キリストの光に従うのであれば、すなわちキリストを見ていれば、誰も迷うことがないようにということだった。

それでは私たちキリストを信じる者も、キリストのように暗闇の中で人を導く光になることが望まれているのだろうか。それができたら、それに勝るものはないのだろうが、さすがにそれは敷居が高すぎるというものだ。キリストは私たちにそこまでは求めていない。私たちは世の光として、まずは自身の内から光を輝かせないとならないが、黙っていても、光はでてこない。蝋燭に火をつけるように、電灯のスイッチを入れるように、私たちも何かをしなければ、内側にある光を輝かすことはできない。光というのは、目に見えるものでなければいけないが、目に見えない信仰心というものは「塩気」にはなっても、残念ながら光にはならない。人から見えるもの、それは私たちの行いである。信仰者として私たちの一挙手一投足が、この世を照らす光となり、人々から見られることになるのだ。キリストはこう言っている。「人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

これは楽なことではないし、むしろ厳しいことである。信仰を持って生きるということは、自分は何もしなくても構わないということではないということなのだろう。