バチはあたらぬ

戒めを守るとは、いかなるものか。それでは、戒めを守らなかったら何か罰則でもあるのだろうか。世間一般の常識で考えるならば、ルールを破ったらそれなりの処罰が待っている。今のところ私はレンタルしたDVDを延滞したことがある程度で、それよりも「重罪」を犯したことはない。たかがDVDの延滞と言いたいところであるが、それでも期日を守らなかったということで、超過料金を支払わざるを得なかった。もちろん悪いのは自分であるから、払って当然なのであるが。しかしルールというものは、守ったから何かっていうものでもない。DVDを期限内に返却したからといって、何か得られるというわけでもないし、運転するときに制限速度を大幅に超えなかったからと言って、次回免許更新日に褒められるわけでもない。5年間無事故無違反を維持すれば優良運転者と見なされて、ゴールド免許になるくらいである。だからといって、税金も車検を安くなるわけでもない。せいぜい任意保険が雀の涙程度の額だけ安くなるくらいだ。日常のルールを守らなければ損をするのは確かであるが、守ることで益になることは無きに等しい。むしろ守って当然と思われているだろう。ルールとはそのようなものだし、人々の生活をより安定したものとするために存在するのだ。誰もがDVDを借りっぱなしだったり、信号無視、スピード出し放題だったら、やったもん勝ち、早いもん勝ちの弱肉強食、無秩序の極み、まるで文明が崩壊してしまった後の世界を想像してしまう。

さてキリストは戒め、律法を成就するために来たと言っている。そのようなキリストに言わせると、律法を守ること、反対に守らないことの結果とはどのようなものなのだろうか。マタイの福音5章19節にあるキリストのことばを借りるのであれば、「戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれ」るということだ。

悪いことをするとバチが当たる、とはよく言われることであるが、少なくともキリストのことばを信じるのであれば、悪いことをしてもいわゆる「天罰」はないということだ。戒めに反することをしたとしても、それどころか他人をそそのかして悪いことをさせたとしても、少なくとも地獄に直行ということはないようである。もちろんそれは信仰面での話であって、悪事を働いたというだけで、神から見捨てられるということだけはないということだ。その反面、戒めに忠実であったり、さらに戒めを守るようにと人を励ますのであれば、現実面においては何も利益に結びつくことはないが、信仰面においては天の御国において大いに祝福されるという。信仰者にとっては、ひとまず安心なことである。戒めを必ずしも守り通せなかったとしても、それが直接に神との断絶にはつながらないということであり、戒めを守るのであれば、神がそれを後々まで憶えていて下さるということになるからだ。つまりどちらに転ぼうとも、信仰を持ち続けるのであれば、神から見放されることはなく、祝福の大小が結果になるということだろう。人によっては、少なくとも地獄に堕ちなければそれで結構と言うかもしれないが、おそらくほとんどの人は、少々雑な言い方になってしまうが、どうせ天国に行くなら大いに祝福されたいと考えるものだろう。

なるほど「戒めを守るは、人のため為らず」とでも言おうか。

ところでキリストは戒めを守ることについて、このようにも言っている。私たちの義が、律法学者たちの義を超越するものでなければ、私たちは天の御国に入ることができないと。律法学者とはその人生を戒めを守ることに全身全霊を捧げてきた人々である。戒めを守ることが義であるなら、果たしてそのような人々を凌ぐことが可能なのであろうか。言い方を変えれば、律法学者のようであれば、天の御国に入ることができるのだろうか。いや、むしろキリストにとって形式ばかりを重んずる律法学者たちは忌むべき存在であったではないか。それを考えると、キリストが言っていることは、律法学者たちのように形にとらわれてはならないということかもしれない。そうであるならば、律法、戒めとはどのように守れば良いのだろうか。