憎み、憎まれ

憎まれっ子世にはばかる、とはよく言うものだ。もちろん人から憎まれようと、どう思われようと気にせずに幅を利かせたいのであれば、勝手気ままに過ごせばいいだけなのかもしれないが、幸か不幸か残念ながら、そうするだけの気概も度胸も私は持ち合わせていない。だからといって人から恨まれることのない善人として日々過ごしているかと言えば、そうでもない。私は悪人でもなければ、善人でもない。一口で言うと、中途半端な人間ということになるのかもしれない。

さて天の御国に入りたければ、すなわち天国に入ろうと願うのであれば、律法学者にもまさる義を行わなければならないというイエスのことばを前回見たが、その意味はまだ考えていなかった。しかし私のちっぽけな頭で考えても、残念ながら答えを見出せるわけがない。ここは素直にイエスが何と教えているかを見ていくのが、最も理にかなっていることだろう。

さすがにイエスの教えることを直接聞いていた弟子たちも、イエスのことばの真意が分からなかったのかもしれない。マタイの福音5章21、22節では具体的な例を用いて教えている。「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。」

おそらく前半の戒めは、十戒の中のひとつである「殺してはならない」のことだろう。殺してはならないというのは、聖書の中だけの戒めではない。当然ながら実生活においても殺しは犯罪であり、今の日本であれば5年以上もしくは無期の懲役刑、さらに悪質であれば死刑である。余談までに米国などで死刑を廃止している州においては、仮釈放なしの懲役何百年の刑というのもあったりする。それはさておき、人を殺めることは、古今東西を問わず罪であることに異論はないだろう。旧約聖書のモーセの時代でも罪であれば、今でも罪である。そして今後も人がこの世界に生きる限りは罪であろう。そして先にも書いたが、罪を犯したものは裁かれなければならない。これが歴史を通して人々が教えられてきたことなのである。

ところがイエスが言うには、たとえ人を殺してなくとも裁きを受けなければならないという。それは兄弟に対して正当な理由もなく憤るのであれば裁かれるということだ。兄弟とは、同じ信仰の下にある人々のことである。信徒が他の信徒に対して不当に恨みを抱くのであれば、それは相手を直接傷つけることではないだろうが、同じキリストにある者同士で仲違いをするのは、キリストの体である教会、信仰者の集まりである教会を傷つけることにつながるのではないだろうか。信仰者として教会を立て上げなければならないときに、それを崩してしまっては、神に前に立たされた時に何と申し開くことができようか。人を殺してはならないという戒めを守るのは当然である。しかし信仰者が求められているのは、心の中でも人を恨んではならないということである。これが律法学者の義にも優るということの一つなのであろう。

では同じ信仰にある者でなければ、恨んでも構わないということであろうか。さすがにそのようなことはないだろう。親しき仲にも礼儀あり、ではないにしても、共通の価値観を持つ相手に対して腹を立てるのが罪となるのであれば、ましてや価値観を共有しない相手に対して腹を立ててしまっては、互いの溝が深まってしまうばかりである。これもまたキリストの望むところではあるまい。

そればかりかキリストは恨まれてもならないと言っている。それは恨まれるからには、それなりの理由があるからだろう。善を行って憎まれることはないだろうから、何らかの落度が自分にあると考えるだろう。まずはそれを悔い改めねばならない。

キリストの体を立て上げようと望むのであれば、またキリストを世の中に示すために地の塩、世の光となることを願うのであれば、戒めにしたがって行動を律するだけではなく、人からは見えなくとも、自らの心を戒めに従わせねばならないのだろう。