喜怒哀楽

あれよあれよという間に年が明けて、2009年という新しい年が始まってしまった。諸事に追われて慌ただしく時間が過ぎてしまったがために、年が暮れて、年が明けるということを実感する余裕すらなかったので、まさしく「始まってしまった」という気分である。もっとも年が明けたと実感するとかしないとか言っても、現実的に考えてしまうと、日が沈んで夜が来て、やがて日が昇って朝を迎えるというだけのことでしかないのだが。しかし、それではいくらなんでも当たり前過ぎて「あけましておめでとうございます」という意味がなくなってしまう。

何はともあれ、こうして新しい年の始まりを迎えることができることを感謝である。

さていきなり過去の話になって申し訳ないが、振り返ってみれば、17年前の今日、私は成田からシアトルに向けて旅立ったのだった。あの元旦は、年が改まっただけでなく、ちょっと大げさかも知れないが人生の転機でもあったのだろう。ところが長い年月を経てしまうと、元旦を迎えたことはもちろんのこと、人生の転機であったとしても、その日その時感じた思いというのは、記憶から薄らいでしったように感じられる。今になって考えてみると、17年前の元旦のことは、何が起こったかは何となく覚えてはいるものの、何をどう感じたのかは、正直ほとんど思い出すことができない。

住み慣れた街や勝手知った日常の生活を後にすることに寂しさを覚えただろうか。これから経験するであろう、今まで知らなかった世界への期待を感じただろうか。よく分からない。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。今考えてしまうと、「たぶん、こう感じたかも……」「きっとこう感じたに違いない!」という勝手な想像というか期待というか思い込み(思い違いとも言えるか)を、無意識のうちに刷り込んでいるような気がしなくもない。

果たして、そのように感じているのは私だけなのだろうか。他人に聞いたことはないから分からない。いずれにせよ、私の経験から言えることは、人の気持ちや思いと言ったものは、時間と共に変化していくものであって、それについての記憶というのも実に頼りがいのないものであるということだ。

これを良しとするか否かは、人によって違うだろう。しかし、良い方向に考えるのであれば、過去に感じた後悔、怒り、不安、悲しみといった人の心を暗くさせるようなものは時間の経過と共に薄れ、やがては消え去るということなのだろう。もちろん、なぜそのような思いを持つに至ったかの経験を忘れてはなるまい。それを忘れては同じ思いを繰り返し味わうことになるだろう。

しかしそうやって考えてみると、喜びや期待といった人の心を明るくする思いも同じように薄れてしまうことに違いはないのだろう。それは残念なことであるが、仕方ないのかもしれない。

喜怒哀楽はその時に感じるものであり、その後のわずかな時間だけ人に憶えられるものなのかもしれない。やはり、それはそれでよいのだろう。いつまでも気持ちが人のうちに留まるとしたら、人間どうなってしまうか知れたものではない。

この一年、良いこともあれば、悪いこともあるかもしれない。もしかしたら何もない平凡な日々が延々と続くかもしれない。しかし、日々の生活においてさえ、小さな苦楽はあることだろう。しかし、嬉しい思いも辛い気持ちも、やがては消えてゆくのである。そこに必要以上の何かを見出すこともあるまい。神は私たちの思いや気持ちをすべてご存知なので、私たちの喜びも苦しみも理解されるお方ではないのだ。そのような神が共におられるのだから、いつまでも思い煩ったり、しつこく驚喜乱舞することはないのだろう。喜べることがあれば神に感謝し、嫌なことがあれば神にそのまま伝え、また新たな気持ちで次の日に臨めば良いのではないだろうか。自らを取り巻く環境、自らの感情に左右されることなく、常に新しい思いで、前向きに過ごす一年になるよう祈る。