体が覚えてること

長い正月休みが明けて、新しい一週間が始まった。と思ったら、また三連休に入ってしまった。長い休みの後は仕事に行くのが億劫だと、若い頃はそう思っていたが、どうしたことか、最近は休みの明けるのが待ち遠しく感じてしまうのである。

いやいや、仕事が好きということでもなければ、仕事に情熱を感じているわけでもない。自分の職務に崇高な目的とか意義を見出してるかと言えば、それはまずない。私にとって仕事とは、生活の糧を稼ぐというのが主たる目的なのである。何もそのような仕事を楽しみにしているわけではない。

それでは休みが嫌いなのかというと、それも違う。朝起きたら仕事に行かねばと、焦る必要がないのはありがたい。たいして好きでもない仕事に行くよりは家でゆっくり過ごす方が断然良い。などと言ってしまうと、先に書いたことと矛盾しているような気がしないでもないが、あまり深く追究するのはやめておこう。単純な私の感想なのだから。

ところで家にいればゆっくり過ごせるのかと言えば、そうでもない。若い頃は好き勝手なことをして時間を潰すことができたのだが、家族がいる今はそんな甘いことを言う余裕などない。なんだかんだと普段はやらないようなことをしなければならないのである。もちろん、一日や二日くらいであればいつもと違うことをしても構わないのだが、それが一週間とか続いてしまうとさすがに体が参ってしまうのである。そうなってくると、仕事が恋しくなってくるのである。

いやいや、よく考えてみると仕事が恋しいわけではない。そうではなくて、普段の生活、自分自身が一番慣れ親しんだ生活が恋しくなるのかもしれない。

朝起きて、追われるように支度をして、決まった駅の決まった場所からいつもの電車に乗って、これまた決まった駅で降りて、いつもと同じ道を通って職場に行く。見慣れた顔を見て、前の日と比べてたいして代わり映えのない仕事をしつつ、毎度毎度似たような状況で腹を立てたり、頭を抱えたりするかと思えば、電話が鳴ったら決まった挨拶で、いつものように愛想良く電話に応え、似たような文章でメールを書く。いつものコンビニで毎回同じ商品を買う、等々。今まで何年間もやってきたことである。必ずしもこれらのことが好きなわけでもなければ、喜んでやっているわけでもない。しかし、頭と体がこれを覚えてしまったのである。好き嫌い以前に、これが当然のものとなってしまったのだ。依存症と言ったら大袈裟かもしれないが、似ているところはあるかもしれない。

これが日常というものなのだろう。

その中に、変化があるのは、気分転換にもなるだろうし、息抜きにもなるかもしれない。しかし、それが日常に取って代わるようになると、結構しんどくなってしまうのだ。そんなわけで、正直私は正月休みが終わってほっとしている。慣れた生活に戻ると、心身共に落ち着くものである。

思えば信仰者としての生活にも、同じようなことが言えるのではないだろうか。決まった教会で、いつものように礼拝に出る。毎週日曜日はこれの繰り返しであろう。会社に勤め始めるより前、すなわち学生時代から教会に通うようになった私には、日曜に教会に行くのは、良くも悪くも私にとって日常となってしまった。面倒臭いと思うことも時にあるが、それでも教会に行くのである。やはり体がそれを覚えているからだろうか。もちろん都合が悪い時には教会に行かないこともあり、その時は「たまにはこれもいいか」と思ってしまうのだが、その一方で「何か物足りないな」とも感じてしまうのである。またここ最近は他所で行われる集会に参加することもないが、かつて参加して思ったことは気分転換になるかもしれないが、やはり落ち着かないのである。そう考えると、やはり自分がいつも行く教会のいつもの礼拝が一番、心が静まるのである。

果たして日曜の礼拝に慣れてしまうのが良いことなのかどうかは疑問として残るかもしれないが、日曜ごとに足が自然と教会に向かうというのは、それはそれで感謝すべきことなのだろう。教会へ行かないことには、とくに私みたいな信仰のさほど篤くない人間は、礼拝を捧げることは滅多にないだろうから。