鼻づまり

風邪をひいてしまった。熱があるわけでもないし、節々が痛むわけでもないから、インフルエンザではない。私の言葉ではない。医者がそう言ったのだから、そうに違いない。熱を出して寝込むこともなく、喉の痛みも退いたことも、咳が治まったことも感謝である。ところが今度は鼻が詰まってどうしようもない。鼻で呼吸するのが大変難しい。口で呼吸すればいいのだが、さすがに口を開けっ放しは、喉が乾燥してしまうし、あまり見てくれの良いものでもあるまい。

どうしようもないから、医者で処方してもらった薬を飲みつつ、治るのをただ待つのみである。ところで鼻が詰まると困ることが二つある。

まず一つは、思いっきり鼻をかむと、耳がおかしくなってしまうということだ。耳が遠くなってしまうというか、周りの音がくぐもって聞こえるのだ。誰でも経験したことがあるだろうから、私が言わんとしていることは分かるだろう。さて鼻と耳は「耳管」というものでつながっており、鼓膜の内側と外側とで気圧を均一に保つようになっているとのことだ。人間の体は良くできているものである。ところがここぞとばかりに「フンッ!」と思いっ切り鼻をかんでしまうことは、すなわち鼻の奥の空気を体の外に出してしまうことになり、結果として耳管を通してつながっている鼓膜の内側の気圧を下げてしまうのだ。それで鼓膜が内側にひっぱられるようなかたちになって、耳が遠くなるらしい。あくびをするか、唾を飲むかすれば治るのは分かっているが、あまり気持ちの良いものではない。

もう一つは、こちらの方が私にとっては痛手になるのだが、嗅覚と味覚がまるで駄目になってしまうことだ。これには辟易してしまう。何を食べても何を飲んでも味が分からないのだから、これほどつまらないことはない。そんな時に限って普段はお茶しか飲まないのに、ふとコーヒーを飲みたくなったりするのだ。コーヒーを飲んでもお茶を飲んでも違いが分からないのだったら、安いお茶で我慢をしておけばいいのだろうけど、なぜか我慢ができないのである。考えようによっては、まずいものを食べても、うまいものと思い込ませることもできて、案外幸せかもしれない。でも、おいしいものを食べてもおいしいと感じることができないのであれば、これほど不幸なこともない。実際、ちょっと高級そうな沖縄の天然の塩でおにぎりを握ってもらったのだが……味が分からなかった。

鼻が詰まると損なことばかりだ。耳は遠くなる、当然ながら鼻は利かなくなる、味は分からなくなる。人間の持っている五感のうち三つまでが、いつものように役に立たなくなってしまうのだ。

そんなことを考えていて、ふと思ったのだが、信仰面においても鼻づまりのようになってしまうことがあるのではないだろうか。聴覚、嗅覚、味覚が鈍るように、感性が鈍ってしまうことがあるのではないだろうか。

信仰の聴覚が鈍くなってしまうと、神のことばをしっかりと聞き取れなくなってしまうだろう。信仰の嗅覚や味覚が働かなければ神のことばを味わうことができないだろう。

いざ自分自身を省みると、心当たりがないわけではない。

神のことばであるはずの聖書を読んでも、字面だけを追っているように感じることがある。読んでいるつもりでも、実際には読んでいないのだろう。耳が遠くなっているように、心が神のことばに対して鈍感になっているのだろうか。何を食べても味が分からないように、神のことばを読んでも何とも感じないのだろうか。神のことばが自らのうちに残らないのである。

人というのはどれほど気を付けていようとも、風邪をひくこともあれば鼻が詰まることもあるし、いかに神に心を向けていようとも、心が逸れてしまうことはあるだろう。それは肉体的にも霊的にも完全な人などいないのだから、避けることができないものなのだ。しかしいつまでも鼻が詰まったままであることはない。いつかは治るものだ。同じように信仰もやがては回復されるものである。なぜなら神は神を信じる人を放ってはおかれないお方なのだから。