浅間山と桜島と富士山と

今週の初めのことだが浅間山が噴火した。横浜から遠く離れた群馬県と長野県の県境にある火山から吹き出された火山灰は、はるばる風に乗って横浜の上空まで漂ってきて、とうとう私の住む町にも舞い降りてきたようだ。とは言っても、雪が降るように目に見えて分かったわけでもないし、足跡が残るほど降り積もったわけでもない。ニュースで初めて聞いて、車にうっすらと埃が積もったかのよう汚れを見て……何てこったい!ついこの間洗車したばっかりなのに!まぁ、四百円のコイン洗車なんで、騒ぐほどのことでもないのかもしれないが、損したというか何というか、ちょっと悔しい。

さて浅間山にそそのかされたのかどうか分からないが、鹿児島の桜島も同じ日に噴火したというではないか。両者の間には随分と距離があるように私の目には見えてしまうのだが、地球規模で考えるとお隣さんとまでは言えないにしても、ご近所さんなのかもしれない。

そう考えるとこの二つの活発な火山に挟まれている日本一の山、富士山はどうであるかというと、実におとなしいようだ。小学校の頃であるが、私は富士山は休火山であると教えられた。つまりここ最近噴火していないし、今後しばらく噴火する兆しのない火山ということだ。ところが休火山という分類がなくなったのを、つい今週知ったのである。というのも、噴火する兆候がないとしても、地質学的には活動が続いているわけで、実態としては活動が続いているために、活火山と分類されるようになったそうだ。そう、富士山は立派な活火山なのである。

浅間山にしても桜島にしても、比較的頻繁に噴火しているために、さほど驚く程のことでもないし、入山規制のおかげで目立った被害もなく、あまり自然の脅威というものを感じられない。ところがもし富士山が噴火したとすれば、その被害は半端なものではないことくらい容易に想像できるよう。などと考えてはみるものの、何百年、いやもしかしたら何千年に一度の出来事であろうから、現実に富士山が噴火するのに遭遇したら、それはそれで孫子の代まで語り続けることができる貴重な体験になるだろう。なんと言っても富士山より高い山がないので、ちょっと高いところに上れば、もくもくと噴煙を上げている姿をどこからでも見ることができるだろうから、不謹慎かもしれないがワクワクしてしまう。もっともいざ富士山噴火となれば、そんな悠長なことなど言ってられまい。さすがに横浜まで溶岩が流れてくることもないだろうし、噴石も飛んでくることはないだろう。しかし、風向きに寄っては火山灰が飛ばされてくるだろうし、その量たるや浅間山の比ではないに違いない。

ちなみに一七〇七年の宝永大噴火では、江戸で二寸ないし四寸、つまり六センチから十二センチもの火山灰が積もったという記録があるそうだ。当時は農作物への影響が甚大であったらしいが、現代では電気製品や自動車等が粒子の細かい火山灰には弱いらしい。昔も今も人間の生活に影響を及ぼしてしまうことに違いはないようだ。言うまでもないだろうが、吸い込んで体に良いものでもない。

そうやって考えてみると、やはり自然の威力というものを感じてしまう。

しかし本当にすごいのは自然の力そのものではなく、そのような自然を創られた神であろう。クリスチャンにとってみれば神はごく身近におられる頼ることのできる存在だろうし、クリスチャンでない人々にとっては、何やら雲の上で地上を見下ろしているかのような存在、つまり自分とは何の関わりあいもない存在と考えているかもしれない。

私もそうであるが、人というのは神という存在を相対的に考えてしまうことが多いのではないだろうか。それはそれで良いのだが、ともすれば自分にとって神がどのようなお方であるかということばかりに目がいってしまい、絶対的存在としての神をあまり意識していないのではないだろうか。

天地万物を創られ、森羅万象を治める神の前では、人間などちっぽけなものなのである。であるにも関わらず、人々と関係を持とうと考えておられる神の寛大さというのは……まさしくはかり知ることのできないものである。