123

先日のことだが、眠ろうとベッドで横になっていると、パソコンの充電を忘れていたことを思い出した。朝になってから充電しても問題ないだろうとも思ったのだが、その日は夜も遅くまで会議に出席しており、さらにその後は飲み会へ(もっとも私は下戸なので食べる専門なのだが……)繰り出したものだから、終電一本前の電車で帰宅する結果になってしまった。そんなわけで、次の日にパソコンを十分に充電させるだけの余裕を持てるほど早く起きるのはまず無理だろうと思い、夜の間に充電することにしたのだ。ふと何時だろうかと思って携帯の時計を見たら、ちょうど1時23分を示していた。123と数字が順序良く並んでいるのを見ると、何となく得した気分になってしまった。私は単純な人間であるから、縁起が良いとでも言おうか、何か良いことが起こりそうな気分になってしまった。

クリスチャンのくせに縁起を担ぐと言うのも何やら変に聞こえてしまうかもしれない。もちろん占いなどは眉唾であると言い切っているのだが、その一方で縁起を担いでしまうのだから、身勝手だと言われてもまったく反論のしようがない。私のイメージするところの理想的なクリスチャンであれば、ただ神のみを信じて、神にすべてを期待し、つまらぬ数字の並びなどに気持ちを高揚させることなどまずないのだろう、たぶん。

とは言っても、やはり夜中にふと時計を見た時に、123と行儀正しく並んでいるのを見れば、嬉しくなるものである。おや、これは珍しい!と、思っただけである。少しばかり私の気持ちが上向きになっただけである。

そのようなわけだから、ちょっとくらい縁起を担いだとしても大目に見てもらえるだろう。などというのは、私の勝手な思い込みでしかないのであろうが。真面目なクリスチャンに怒られてしまいそうだ。

しかし物事は考えようである。身のまわりで起こることはもちろんのこと、この世界で起こるあらゆることは、それが良いことであっても悪いことであっても、神の許しなしに起こることはないのである。福音書のどこだったか正確な箇所は思い出せないが、このようなことが書いてあったことを憶えている。一羽の雀でさえも神の許しなくして地に落ちることはないと。すなわち日常のどうでもよさそうなこと、気にしなければ見過ごしてしまいそうな些細なこと、いかに小さなことであろうとも、それは神が認められたから起こることなのであろう。

時計が1時23分を示していることに私が気付いたという、一日の間に1440分の1の確率でしか起きないことを、ただの偶然と言ってしまえばそれまでなのだが、神がそれを許されたと考えてみると、何やらありがたく思えてくるのだから、不思議というか、何とも面白いものである。だからと言って、そこに深い意味があるとも思えないし、聖書のいずれかの書の1章23節を読めと神が示されたとも思えない、さすがにそれは考え過ぎだろう。

それでは時計を見て、私はどう感じただろうか。私は得した気分になっただけである。何か良いことが起こりそうというのは、もちろん私が勝手にそう感じただけで、神がそれを約束して下さったわけではない。何の変わり映えもしない日が続いていても、それは今まで通りの普通のことなのである。

しかし数日経って顧みると、良いことが何も起きなかったと言い切ることもできないように思う。なぜなら「何か良いことが起きるかも」と、あの時に楽天的な気持ちになれたのだから、これだけでも十分に良いことと言えるだろう。びっくりするような良いことではないかもしれないが、日常の中でささやかであったとしても、あえて求めていなかった喜びを私に与えて下さったことを感謝に思う。

日々の生活の中で、神は意外な物事を通して人に良いものを与えて下さるのだろう。偶然を信じるのではなく、神を信じるのであれば、それに気付くことができよう。