かたちあるもの

仏像泥棒がお縄に掛かったというニュースを読んだ。こともあろうにお寺さんから大事な仏像を盗み出すとは、何と言うか……バチ当りなものである、などとクリスチャンの私が言うのは適当ではないかもしれないが、モノが何であれ、人様の物を盗むのは良くない。盗人曰く、信仰心から盗んでしまったそうだ。嘘か本当かはいざ知らず、毎日拝んでいたという。なんでも、仏像には供え物までしてあったというから、犯人にとってはありがたいものであったのかもしれない。結局のところ、仏像21体と掛け軸3本が押収されたという聞くと、よくもこれだけ盗んだものであると、呆れてしまう。1体盗んでも満足しないとは、大した信仰心である。お寺の関係者曰く、仏様もさぞかし安心していることでしょうとのことだ。

話は変わるが、遠く離れたフランスのパリではデザイナーの故イブ・サンローラン氏の遺品がオークションに出された。その中には19世紀に中国から持ち出された十二支のウサギとネズミのブロンズ像の頭部があったという。さてどうなったかというと、当初予想された金額をはるかに上回る高値で最終的に落札したのは、中国の収集家であったという。中国にとってみれば歴史的文化的遺産であるかもしれないことを考えると、他人の手に渡ってしまう前に、何としてでも自分たちの元に取り戻したいと考えるのは当然のことであろう。ここまではこれといって不思議なことでも何でもない。

ただ厄介なことに、その収集家は入札した金額を払うのを拒んでいるという。彼と、彼に賛同する人々にしてみれば、もともと自分たちのものであった像を手に入れるのに、何故金を払わなければならないのか、という意見であるようだ。無理やりそれを海外に持ち出したのは、英仏の兵士たちであったと彼らは言っている、これもまた微妙なところである。もちろん像を略奪したのも盗みであって、良くないことであるが、金を払うと言って払わないのも、これもまた盗みのようなものである。盗んだものを盗み返すという、どっちが良くてどっちが悪いのか、ややこしくて分からなくなってしまう。略奪されたのであれば、その直後に返して欲しいと訴えるなり、腕力で奪い返すこともできたであろうに、百年以上も経ったうえに、一度人の手に渡ってから「自分のものだからお金を払わない」というのも、ちょっと首を傾げたくなる。

それにしても人と言うのはモノに執着するものである。人がそれに価値を見出せば見出すほどに、取ったの取られたのと大騒ぎである。

旧約聖書の時代に神はモーセを通して人々に戒めを与えた。十戒である。神は盗むなと教えている。してみると、仏像を盗んだ社長さんも、ネズミとウサギの像を盗んだ19世紀の兵士も、支払いを拒む中国の収集家も、皆この戒めを破っているように思える。だからと言って、神の逆鱗に即座に触れるというわけでもないが。

ところで十戒にはこのような内容も含まれている。「偶像を造ってはならない。どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」これでは仏像が戻ってきて涙を流さんばかりに喜んでいるお寺の人たちも神の戒めに反していることになってしまうだろう。もっとも神は寛大なお方であるから、即座に彼らを懲らしめることはないだろうから、ちょっと安心である。クリスチャンであっても日本人であるからには、お寺やお宮にはノスタルジーを感じてしまうのである。信仰熱心な人たちからは怒られてしまうかもしれないが、こればかりはどうしようもない。

自分は盗みもしないし、仏像を拝んだりすることもないから大丈夫、クリスチャンだからこの辺はちゃんとわきまえているから大丈夫、と考えるかも知れない。盗んではならないと、神は言うが、神の目から見たら人のものを羨むことでさえも盗みと同じことなのである。あからさまに偶像のかたちをしていなくても、それが人の手によって作られたものであって、人が神よりもそちらに夢中になるのであれば、偶像を拝んでいることと同じではないだろうか。そう考えてみると、自分は真面目だから、キリストを信じているからと言っても、あたら罪を犯さないというわけではない。神が赦す神であることに感謝である。