もし、私が献金をしなければ

世の中にはファーストフードのお店でクーポンを使うことに抵抗を感じる人もいるようだが、私はそうではない。例えばマクドナルドでは120円のコーヒーを100円で買うことのできるクーポンがあるのだが、私はそれを使うととっても得した気分になる。20円程度のみみっちい金額で損したの得したと言うと、あさましいだの格好悪いだのと思う人もいるかもしれないが、ファーストフードごときで格好良いも悪いもないだろう。ついでに言うと私はマクドナルドのハンバーガー無料券だけでハンバーガーを四つも注文したことがある。さすがに他に何も買わずにハンバーガー四つを頂くのにはいかがなものかと思い、その時はポテトも一緒に購入した。もちろんポテトもクーポンを使ってである。果たしてケチなのか、それとも貧乏なのか……。とにかくお金を出さずに済ますことができるのならそうしたいと考えてしまうのである。

そんな私が100円のコーヒーをありがたく飲んでいるかと思えば、私の目の前でほとんど手付かずのポテトをためらうことなくゴミ箱に捨ててさっさと店を出て行く人もいるのである。ポテトが好きだけど、最近値上がりしたおかげでクーポンがあっても気軽に食べることのできない私には、とてもじゃないがポテトを捨てるという発想はない。ポテトに泣く者はポテトに笑うと言うべきか。その人がポテトを食べようが捨てようが、私がポテトを買えないという事実に変わりはないのである。食べないのなら私に呉れてもいいじゃないか……とはさすがに思わないまでも、でもやっぱりあれはもったいない。

もちろん財布の中にポテトを買うためのお金がないわけではない。150円を出したくらいで痛むほどヤワの懐ではない。ガソリン価格が高騰して世間の流れは車に乗るのを控えようかという時期でも、何のためらいもなく満タンにしていた私である。もちろんリッター2円引きのクーポンを使ったが、ポテトを50個注文するくらいの金額にはなったかもしれない。人によってはそれを贅沢とか無駄とか思うかもしれないが、私にとっては何ら疑問を感じるものではない。

結局のところ、何にお金を費やすのかは人それぞれなのである。私にとってポテトはわざわざ高い金を出して買うほどの価値はないのかもしれない。まぁ、ポテトが高価なものかどうかは議論の余地があるだろうが、あれに150円出すのはさすがにもったいないと思ってしまう。コーヒーのように100円だったら悩むこともないのだろうけど。もっとも私の健康のためにはこの方が良いのだろう。

などと考えていると、献金のことが頭に浮かんでくるのである。大雑把に数えてみると、一年を通して私の手取り一月分が献金になっていることになるだろう。高給取りではないにしても、一月分の手取り分を自由に使えると使えないとでは大違いである。これを惜しむかどうかで、私の献金に対する態度が分かってしまうであろう。

さて、私は献金を惜しいと思うか……うむ、正直に言うと、やっぱり惜しい。喜んで捧げるのが本当の献金なのであろうが、毎回献金する度に残念に思うのである。だったら献金なんてしなければいいじゃないか、とも思うのだが、なぜかそれも躊躇われる。献金しなかったからといって、神が私を見捨てるとも思えないし、私が神を信じなくなったということにもならないだろう。

聖書の中にはこのような話があったと思う。ある時、わずかな金額しか捧げなかった貧しい人を指さして、自分の方がたくさん献金していると言った宗教家に、キリストは金額の多い少ないではなく、捧げる気持ちが大切であると説いた。貧しい人はもっているもの全てを捧げたが、宗教家は持っているうちから一部を捧げたからだ。神は惜しみなく捧げる気持ちを喜ばれるのだろう。

惜しみなく捧げることができる信仰が欲しいものであるが、それはそれで一抹の不安がないとも言えない。神は人の必要を満たして下さるお方なので、全てを捧げたとしても路頭に迷うようなことはないのだろうが、残念ながら、そこまでの信仰は今の私にはない。