ひとりになれる場所

お金と時間以外に今一番欲しいものは何かと聞かれたら、書斎が欲しいと答えたいところだ。とは言っても、現実的に考えてみれば書斎なんてどだい無理な話なので、それ以外で何が欲しいかと言えば、クルマが欲しい。何も今のを買い換えたいというわけではない。そうではなくて、自分だけのクルマが欲しいのである。それとなく妻に言ってみたら、にべもなくダメと言われてしまった。高級車を望んでいるわけでもなければ新車を望んでいるわけでもないので、無駄遣いをせずにせっせと貯金をすれば不可能なことではないと、私は自分勝手に考えている。しかし妻の言い分は、クルマを買い足す余裕があるなら子供のためにお金を貯めなさいということだった。まぁ……それはそうだろう。どう考えても妻の言うことが正しい。残念ながら反論の余地がまったくない。

ところでなぜクルマが欲しいのかと言えば、移動手段が欲しいからではなく、自分だけの空間が欲しいからなのである。ゆえに第一希望はどう考えても無理なのは承知で書斎なのである。独身の頃は自分の部屋があったから良かったものの、結婚してからは自分の場所というのがまったくと言えるくらいなくなってしまった。24時間365日必ず近くに誰かがいるのである。心の休まる暇もない。元来が人と一緒にいるよりも孤独を好む質なので、自分以外の誰かの存在を近くに感じると、結構疲れてしまうのだ。

それだったら一人でクルマに乗っていればいいではないかと言われそうだ。確かに私もそう考えていたのだが、後部座席にチャイルドシートだのおもちゃを乗せていると、どうにも家族臭さが抜けきれなくていけない。実際に誰かがいるわけでもないのだが、誰かがいるような空気を感じるのである。だからもし自分専用のクルマを買えるのだったら、まず間違いなく2人乗にしたいところだ。それこそ1人乗りでもいいところなのだが、さすがにそんなクルマは聞いたことがない。

そもそも自分だけの場所が欲しいという思いは贅沢なのであろうか。

そもそも孤独を求めること自体が間違っているのだろうか。

考えてみれば、天地創造において神が人を創られた時に、人がひとりでいるのは良くないと考え、神はもうひとり創られたではないか。とすると、孤独を求めるのは、あまり良いことではないのだろうか。しかしひとりにならないと休めないという場合もあるだろうし、理由はともかくとして無性にひとりにしておいて欲しいと思うこともあるだろう。そのようなことを考えていると、何が正しいのか分からなくなってしまう。それ以前に正しいとか正しくないとか言うことさえ、どうなのだろうかとも思う。

そのようなことに思いを巡らせていると、イエス・キリストはどうであったろうかとちょっと気になった。彼は弟子たちと寝食を共にしており、好もうと好まざろうと常日頃から大勢の人々に囲まれていた。してみると、私以上に彼には自分だけの場所というものがなかったのではないかと想像がつく。果たして彼は孤独を求めることがあっただろうか。私が聖書を読んだ中で記憶に残っている箇所がひとつある。それは彼が逮捕される直前のことだ。過ぎ越しの祭りの夜、彼はわずかな弟子たちを伴って祈りを捧げるためにゲツセマネと呼ばれる庭へ出掛けて行くと、彼は弟子たちを後に残してしばらく離れたところで祈り始めたのだった。イエスはもっとも身近であったはずの弟子たちから距離を置いたのである。そう考えると、孤独を求めることは必ずしも悪いことではないだろう。

しかし、イエスは自分自身のためだけに孤独を求めていたわけではなかった。彼にとっての孤独とは、世間の思い煩いや喧騒を避けて、静かに神と向き合うためにあえてひとりになりたいがために望んだものだった。自分を取り巻く世界から一歩退いてみること自体は時に必要なことかもしれない。その時に何をするのかが肝心なのである。ひとりになった時、神に目を向けるのであれば、それはその人にとって貴重な時間になるであろう。

などとごたくを並べてみたものの、書斎であれクルマであれ、やはり自分一人になれる場所は欲しいものである。