使徒信条がもし…

使徒信条というものがある。聖餐式の時に教会で読むこともあるので、何度か教会に足を運んだことのある人なら一度くらいは聞いたことがあるだろう。でも、もしかしたら今初めて使徒信条なるものが存在することを聞いた人がいるかもしれないので、簡単に説明してみよう。使徒信条とは、読んで字のごとく「使徒」の「信条」である。使徒とはすなわちキリストを信仰する人々を意味するので、さながらキリスト教信仰の土台となるものを要約したものであるといえよう。言葉の選び方に若干の違いこそあれ、教派宗派関係なく世界中の教会で使われているものである。

さて、その内容をここで全部書いて説明すると、ちょっと長くなりそうなので、一部だけを抜き出して考えてみたいと思う。

「…主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生れ、ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人の内よりよみがえり…」という一節である。キリストの生と死、そしてよみがえりについて書かれたところである。細かな出来事やキリストが人々に教えたことを抜きにして考えると、これだけ読めばキリストがどのようなお方であったかあらましを知ることができよう。

ところで、もしこれが「主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生れ」というところまでだけで、イエス・キリストがその後どうなったかについて何も書かれてなかったらどうであろうか。つまり、イエス・キリストの誕生のみがクリスチャンにとっての信仰の基礎となるとしたらどうだろうか。いや、ちょっと冷めた目で見れば、二千年前に生まれた人が、今日の私たちにどのような関係を持つのかと言えば、甚だ疑問である。それだけでは信仰の土台にもならないだろう。せいぜい私たちの目には、二千年前のイスラエルで人々に神の国とはどのようなもであるかを教えていた一人の教師として映るくらいであろう。その教えの中には私たちの心に伝わるものがあるかもしれないが、それだけである。言うなれば過去の偉人として私たちの記憶にとどまるのみであろう。救い主と呼ばれているキリストの姿をそこに見出すことはできない。

では「ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」までだとしたらどうだろうか。罪も汚れもなく、人々から慕われていた人物が、彼らの身代わりとして罪を一身に背負って、残忍な方法で殺されてしまったのである。キリストがそれほどまでに人々を愛し、彼らが罪から解放されることを望んでいたということの表れであろう。それを信じて受け入れることで、人はすべての罪を赦されて神の前に正しい者とされるのであるなら、確かにキリストは救い主と呼ばれるに相応しい。しかし、それだけだと何かが足りないような気もする。もしキリストが自身を犠牲にして十字架に掛かったところで話が終わりだとしたらどうであろうか。人々を罪から救い出したお方は、今もどこかの墓に眠っていることになってしまう。もうしそうだったら「あのキリストでさえ最後は死んでしまったのだ。たとえ罪が赦されたとして、死んでしまえば、それで全てが終わってしまうのだ」そう人々は考えるだろう。そこには罪が赦されたことに対する感謝こそあれ、希望はないだろう。

しかし実際は「陰府に下り、三日目に死人の内よりよみがえり」とあるように、キリストは墓に眠ったままではなかったのだ。偉大な教師であり、自己を犠牲にしてまで人々を罪から解放したお方は、死をも克服されたのだ。奇跡と呼ぶなら、それもありかもしれない。しかし、それだけではなにやら物足りない気がする。私たちにとっては、死人が生き返るなど摩訶不思議なことに思えるだろうし、それを理解することなどまずできない。だから私たちにとっては奇跡でもよいだろう。ところがキリストは死を超えたのであって、全てを可能にする神の力が現されたと考えるのが適切だろう。

聖霊によりてやどり、処女マリアより生れただけでは不十分である。十字架につけられ、死なれたとしてもまだ何か足りない。しかし死人の内よりよみがえったことでキリストが本当はどのようなお方であるかを知ることができよう。どれか一つでも欠いてはいけない。これら全てを体験されたキリストこそが救い主なのである。