言えずじまい

さてさて教会の冷蔵庫が壊れて新しく買い換えてからというもの、月に一度、礼拝後のお知らせの時間に、冷蔵庫購入費の支払いのために献金のお願いをするのが、ここ最近の私の奉仕、と呼ぶほどのものではないだろうけど役目みたいなものになってしまった。親にしょっちゅう無心しているので、変な話かもしれないが、献金をお願いすることに特に心を痛めることもない。必要なものは必要なので誰かがやらねばならないわけでもある。

毎月月初めにいくら集まったかを集計し、その翌週に報告も兼ねてお願いをしてきたわけで、ちょうど先週の日曜日は第二日曜日でもあり、流れからすればまたもや献金のお願いをするところであった。が、先週礼拝に出席された方々は、ご存知かもしれないが、先週はそれをしなかったのである。

いや何も私がお願いしないと決めたわけではないのだが。

実際のところ、何と言って献金のお願いをしようかと私はあれこれ考えていたのである。いつも思うことなのだが、ただ単純に「冷蔵庫のための献金をお願いします」というのでは、いくらなんでも芸がなさ過ぎるようでもある。もっとも献金を募るのに、芸が必要かどうかいうと、必要ではないだろう。そう考える一方で、淡々とお願いするだけでは、あまり印象に残らないのではとも考えてしまうのだ。しかしながら各々が自らの意思に従って捧げる献金なのだから、あれこれ余計な言葉を並べずに誠実にお願いすればいいのではないかと言われてしまいそうな気がするが、確かにそのとおりかもしれないので反論の余地がまったくない。などとあれこれ考えてしまうと、献金を印象付けるべきかどうかという、何とも厄介な問題になってしまいそうなのでこれくらいにしておこう。結局のところ、両極端にならなければよいのかもしれない。

しかしそうは言っても、冷蔵庫のために献金を募っていることさえ忘れられてしまってはちょっと困るので、せめてひとこと、ふたことくらいは言っておこうといつも思うのだ。誰かが私の顔を見たときに「あっ、今月はまだ冷蔵庫の献金をしていないや!」と思い出してくれれば……いや、それではやり過ぎか。おそらく他の誰よりも一番献金を忘れやすい私自身が、こうすることで献金を忘れないでいることができるから、他の人のためというよりも、まずは自分のためになっているのかもしれない。

どうにも献金のお願いをするのも、結構気を遣うのである。

そんなわけで、先週も何と言おうかとあれこれと考えていたのである。ちょうど先週末は暑かったので、コーヒーばかりではなく冷たいものを飲みたくなりますよね、とばかりに言おうかと思ったのだが、結局言えずじまいだった。

さて、先週お願いをしなかった理由であるが、毎月のようにお願いするのは申し訳ないと、牧師先生がお考えになったからである。さすがに人が出来ている。私にはそのような思いなどまったくなかったのだから。

それにしても、私の考えることはちっぽけなものである。どうすれば献金を印象付けることができるかと考えるなどとは。あれこれ考えたところで、結局はその機会すら得ることができなかったではないか。人があれこれ考え計画を立てたところで、それを実現させることができるかどうかは、その時になるまで誰にも分からないことなのである。予定したとおりに物事が進むこともあるだろう。何事も期待した通りに運ばないこともあるだろう。人が知恵を絞って、先々のことまで考えたとしても、それが確かに実現するという保証はどこにもないのである。人の立てる計画とは、何ともあやふやなものである。

世の中に確実な計画があるとすれば、それは神の立てられたご計画だけである。全知全能である神は、この先何が起こるかすべてをご存知であり、ご自身が望まれればどのようなことでも実現させる力をお持ちなのであるから、それも納得できよう。では神のご計画とは何であろうか。それは、キリストを通して罪を赦された一人ひとりが、永遠のいのちを得て、天の御国へ向かうというものである。