臭いものに蓋をする

臭いものには蓋をしろと言うからには、まずは自分自身に蓋をしなければいけないのではないかと考えてしまう。特にこれからの季節は汗をだらだらかいて、何とも言えない臭気を放ってしまうことだろう。汗をかくなと言われても、こればかりは自分ではどうすることもできないのだから、それこそ蓋をかぶせてしまうのが関の山だろう。もし私を覆うだけの大きさの蓋があればの話であるが、もちろん、それは勘弁してもらいたい。

さて臭いで思い出したのだが、私が子供の頃はまだ下水道が整備されておらず、バキュームカーが、いわゆる汚物を汲み取りにくるという光景はさほど珍しいものではなかった。作業をしているところに近づくと、一種独特の臭いが鼻をつく。また灰色と深緑色と群青色を混ぜ合わせたような、見るからに魅力を感じさせない色で車体が塗装されていたように記憶している。いや、もしかしたら違ったかもしれないが、見掛けたら、近寄らずに避けて通りたい印象を与える存在に違いなかった。

もはや街中で見かけることもないので、もはや私の記憶から消し去れらてもおかしくない過去の異物…じゃなくて昭和の遺物になったかと思いきや、偶然にも先日その姿を見掛けてしまった。しかも走行中ではなく、ちゃんと汲み取り作業をしていろところを。おまけに2日続けてである。

ちなみに我が家の近所ではない。どうやら、私の勤め先の近所は下水道が整備されていないところもあるようだ。ほどよく距離があったのであの懐かしい臭いは漂ってこなかったが、この蒸し暑い季節にあの臭いを嗅いだらどんなものであろうかなどとは、考えるのも恐ろしい。

さて私が見掛けたバキュームカーであるが、私の幼い頃の記憶と比べてみると、著しく違うところがあった。何かというと、その色である。なんと私が目にしたのは…ピンク。しかも、どぎつい濃い紫が混じったようなピンクである。趣味の悪さ何ものにも劣らずという具合で、呆気に取られてじっと眺めてしまい、言葉を失った。

たしかに臭いものには蓋をしろというけれど、いくら蓋をにぎやかに飾り立てたところで、所詮中身は汚いものにかわりはないだろう。

見た目などというものは、中身を隠すための偽りに過ぎないのだろうか。

ちょっと失礼な言い方になってしまうかもしれないので、そこは事前にお詫び申し上げるが、人にもそのようなところがあるのではないだろうか。自分には何一つ過ちも穢れもない、自分は外も内も潔癖であると言い切ることの出来る、よほどの自信家を除けば、誰だって自分の心の内側には、人から隠したい、世間の目に晒したくないと思うような、何らかの汚点があることくらい言われずとも気付いているだろう。しかし、それを人に話したいと考える人はあまりいないだろう。どうすることもできずに、ただ自分の心の奥底、誰にも見透かされないような場所にしまいこんでしまうのが人というものなのだろう。

そしてあたかも問題がないかのように外面を繕ってしまうのも人というものなのだろう。自分はそんなことで誤魔化したりはしないと思うかもしれないが、やせ我慢くらいはするだろう。程度の差こそあれ、人はどこかで何かを隠してしまうことに違いはないだろう。それが良いとか悪いとかではなく、それが自然なことなのかもしれない。

ところが、心の深いところにある何かに蓋をしたところで、それを見抜くことのできる存在がある。それが神である。人はどのようなことも神から隠すことはできないのである。それが良いことであっても悪いことであっても、神はすべてをお見通しなのである。

しかし恐れることはない。なぜなら神は私たちのすべてを知った上で、私たちのことを愛おしく思っておられるのだ。私たちをありのままで受け入れてくださる神に感謝したい。