地震と台風、備えること

先週の前半は、台風が来たかと思ったら、地震に見舞われるといった具合で、影響の及ぶ地域に住んでいた方々にとっては踏んだり蹴ったりだったろう。私にとってはどうだったかと言えば、月曜日に休暇を取って、せっかくだから家族揃って海にでも行こうかと考えていたのに、いざ当日になってみたら、こともあろうか台風がちょうど接近している時であった。何のために休んだのか、ちょっと残念にさえ思えてくる。そして翌日の早朝は、地震で目が覚めてしまった。ちょっとやそっとの地震では、目を覚ますことのない私であるが、そんな私でも目を覚ますほどの地震だったから、結構な大きさだったのだろう。もちろんそこでベッドから起きて活動を開始したのならば、早起きは三文の得とも言うから、一日を有意義に過ごすことができたのかもしれないが、どうにも朝は弱いのでそのまま寝てしまった。実際に私の住む所で、どれくらいの震度だったのかは、その時には分からなかったが、体感では少なく見積もっても震度4くらいはあったような感じだった。後ほど新聞を見たが、私の感覚は間違っていなかったようだ。

それにしても、二つの災害に時を同じくして見舞われるとは、何と言う…運のなさであろうか。何はともあれ、せいぜい今の私にできることは、被害に遭われた方々に神からの癒しと慰めがあることを祈るくらいしかできない。

不幸中の幸いと言おうか、それでも今回は台風にしても地震にしても、規模がどちらかといえば小さいものだったので、被害が最小限に抑えられて済んだのかもしれないが、果たして次はどうだろうか。地震も台風も現実のものであり、今回のよりも遥かに威力を持っていることも珍しくはない。危険がないとは言わない。むしろ私たちは常に災害の可能性の中に生きているのだ。

過去に何が起きたのかを調べてみれば分かる。台風にしてみれば、伊勢湾台風で五千人近い方々が亡くなれたという。もっとも私の生まれる前の話であるが。また地震にしてみれば、阪神・淡路大震災で六千人近い方々が亡くなられている。これが現実なのである。そのいずれも、まだ起きていないだけであって、いつか必ずやってくるのである。そして必ずやってくるということは、同時にやってくるという可能性も否定はできない。

自然は私たちの都合を考えてはくれない。起きる時に、起きるのである。台風が迫っているから、今は地震を起こすのを止めておこうなどとは、自然は考えてくれないのである。言うなれば、自然ほど無慈悲なものはないかもしれない。神がおられるから、そのようなことは起こさないだろうと考えたくなる気持ちも分からないでもないが、それとこれとは別である。神の慈悲は、罪からの赦しと永遠のいのちを人々に与えるという形で表されており、すべての災禍から人類を守ってくれるというものではない。

さてそのような災いから自身をどのように守ればよいかというと、備えあれば憂いなしとも言うように、災害時に必要なものを備えておくことなのかもしれない。かく言う私自身はどうであるかというと、なるようにしかならないと考えているところもあって、何も用意はしていない。妻が思い出した時に言ってくるが、面倒くさい、場所をとる、なんとかなるだろうと一蹴にしてしまう。

物質的なものは用意すればよいだろうし、それこそ運がよければ「なんとかなる」かもしれない。最近では災害時に無料で飲料を出せる自販機だってあるくらいだ。もちろん肝心な時にはすでに中身がなかったりするかもしれないが。

しかし、災難に見舞われた場合に、人は何かと不安を感じたりするものであろう。先週の日曜の夜にも地震があったが、長女が怖がって泣いてしまった様子を見ると、そんな気がする。そのようなときの備えはどうすればいいのだろうかと考えたときに、やはりたどり着くのは神にすべてを委ねるというところである。確かに神は地震も台風も起こさないという約束はされていない。しかし神はキリストを通して、世の果ても私たちと共にいて下さることを約束され、聖霊を通して常に私たちを導いて下さることを約束されたのである。であるから、困難にあったとき、私たちを助けてくれる本当の備えは神が与えて下さるのであろう。