バスマロン

バスロマンというものがある。テレビの宣伝や、薬局の売り出しで普通に見かけるものなので、さすがに聞いたことのない人はいないだろう。要するに入浴剤である。温泉の素のような高級品ではない。でかい容器に入って数百円程度である。我が家が先日購入してのは、ラベンダーの香りとか謳っていたが、一回使い切りのパッケージに入って売っている温泉の素とは、香りも見た目も劣っている。やはり価格相応のものであろう。念のためにもう一度言うが、バスロマンである。バスマロンではない。

これをうちの子どもに言わせると、なぜだかバスマロンになってしまうのである。風呂に栗でも入っているのかと勘違い…する人はいないだろうが、ゆず湯ならぬ栗湯である。ゆず湯は香りも良くて、湯に使っていると心身共に落ち着けるが、栗湯というのは…想像するに痛そうだ。心安らぎ、疲れ癒やされるどころか、満身創痍になってしまう。翌日は絆創膏だらけになって風呂どころではないだろう。

だからバスマロンじゃなくてバスロマンだと思うのだが、聞いているとどちらが本当なのか分からなくなってしまいそうだ。ロマンとマロン…繰り返し言ってるとそのうち頭がこんがらがってしまう。もうマロンでもマロン、じゃなくてロマンでも、どっちでも構わないではないかと、言いたくなってくる。洒落た名前を付けても、所詮ただの入浴剤である。

ちょっと大げさに書いてみたが、言い間違え、聞き間違えというものが、その言葉の意味は全然変えてしまうことの分かり易い例であろう。しかも意識していないと、間違いに気付きにくいということもあるのだ。もっともバスロマンをバスマロンと呼んだところで、大したことはないのだが。

ところが、世の中には言い間違えたり、聞き間違えたりしては、たいそうな影響を与えてしまう場合もあるだろう。さすがに例を挙げてみよといわれたら、ちょっと今は思いつかないが、言葉というのはえてしてそのようなものであろうと思う。言葉というのは難しいものだ。両刃の剣と言われることもあるように、たとえ使い方が間違っていなかったとしても聞き手によって、それを肯定的に受け止めることもあれば、否定的に受け止めることさえある。極端な言い方になってしまうかもしれないが、生かすも殺すも言葉次第とも言えよう。

例えば「神は祈りを聞かない」というのと「神は祈りに答えない」というのは、何気なく聞いていれば、同じことを言っているようにも聞こえるだろう。たしかにどちらも結果から見れば、同じことを示すだろう。神に何かを求めたとしよう。例えば新しい車が欲しいとか、キレイな奥さんが欲しいとか、宝くじで一等を当てたいとか、あれこれ願ったり望んだりするだろうが、結局求めたものが何一つとして与えられなかったら、きっと先に書いたように言うだろう。どっちの言い方をするかはその時の気分次第かもしれない。結果を見る限りは、どちらの言い方でも間違いではないだろう。

しかし、何かを望んだ人の立場からではなく、そのように祈られた神の立場からすれば、この二つの言い方の示すことは違うように思われる。「神は祈りを聞かない」ということは、神がそもそも人の祈りを聞いていないのではないかという意味が含まれいるが、「神は祈りに答えない」ということは、少なくとも神は人の祈りを聞いてはいるが、ただワケがあってそれに答えていないということを意味するのではないだろうか。何度も言うようだが、結果は一緒である。但し、そこに至るまでの過程が違うのである。それを考えた場合、前者ではなく後者が正しいのであるが、あまりそこまで考えて言葉を使い分ける人はいないだろう。

ちょっとした言葉の使い方で意味が大きく変わってしまうことがある。私たちの言葉の使い方ひとつで、神の本来の姿を異なったものに変えてしまう可能性があることを忘れてはなるまい。口は災いの元と言うが、自分自身に災いをもたらすのであれば、自分で蒔いた種なのでやむをえないとしても、それが神の印象を損なってしまうことのないように気をつけたいものである。