片付けてはならないもの

暦の上では立秋過ぎてから秋なのであるが、どうにも暑さが厳しく、まだまだ夏のような日々が続いていたが、九月も最後の方になってから、ようやく暑さもひと段落という感じである。朝晩は涼しく、日中も蒸し暑さを感じることなく、過ごし易いと感じる日が多くなった。さすがに暑がりの私でさえ、夜寝るときには寝室の窓を閉め、夏掛けの布団をかぶるようになった。そうでもしないと、むしろ寒いとさえ感じてしまう。そんなわけで、リビングから和室に追いやられていた扇風機を見て、今年はもう使うことがないだろうと考え、連休で家にいるときに片付けてしまった。

しかしいくら涼しくなったと言っても、暑さが完全に去ったと言うわけでもない。例えば、まだ衣替えをして、長袖シャツを着ようとは思わない。実際、駅から家まで歩いたり、熱いものを食べたり(これは一年365日通じて変わらないかもしれないけれど)、マンションの一階から三階まで荷物を運ぶために数往復したりすると、まだまだ汗だくになってしまうのである。

そんな時に一番ありがたいのが、実は扇風機である。扇風機の風を受けるとそれまでの暑さが嘘のように消えてしまうのだ。もちろんうちわでぱたぱたと扇いでも、涼むことはできるのだが、扇ぐという行為そのものが暑さの原因になってしまうことがあるので、あまり助けにはならない。ちなみに真夏であったら、扇風機の前を離れると再び暑さは戻ってくるのだが、真夏日も過ぎると、ひとたび暑さは失せたままでいる。なるほど、暑がりで汗かきな私にとって扇風機とは、なくてはならない存在であることが分かってもらえるだろう。

ところが愚かにも、私は自身にとって必要なものを片付けてしまったのだ。汗をたらしながら家まで帰ってきても、涼むことができないのである。顔を洗うか、シャワーを浴びるかして汗を流すしかない。後悔先に立たずである。百段近い階段を上っても汗をかかないで済むほどの涼しさになるまで、ひたすら我慢するしかない。勢い付いて扇風機を片付けてしまった報いであろう。もうしばらくの間は、汗をかこうと、暑く感じようと、おとなしく受け入れるしかないのである。

それにしても人というのは、大事と思うもの、もしくは必要と思うものを、熟慮せずに、また十分な理由付けもせずに、自分から遠く離れたところに追いやってしまうことがあるのではないだろうか。そしてそれが欲しいと思ったときになってから初めて、自分の失敗に気付くのである。しかし、時すでに遅し、である。誰しも一度や二度は、似たような経験があるのではないだろうか。

ふと最近の私自身の生活を省みると、扇風機どころではない、もっと大事な何かをどこかにやってしまっているような気がしてならない。それが何であろうかとよくよく考えてみると、私は神と過ごす時間をどこかに置いたままのようだ。神と過ごす時間とは、すなわち聖書を読むこと、祈ること、黙想することであろう。もちろん人に言われなくとも、それらの重要性は重々承知しており、意図的に遠ざけているわけではない。それこそ深く考えずに、まあいいかと、やらなくなっているだけだ。わざとやっているなら、その意識を変えることで解決できるだろうが、無意識のうちに惰性で離れてしまっているのは、自覚がないのだから、これはむしろ厄介なことと言わざるを得ない。

万が一にも、大事なものを自ずから遠ざけていることに危惧を抱くこともなく、また自覚がないことすら気に掛けなくなってしまっては、本当に自身の生活から神と過ごす時間を片付けてしまうことになろう。もしそうなったら、いざ必要になったときには手遅れになりかねない。そうならないように、大事なもの必要なものは、いつでも使えるようにしておくのが良いのだろう。