イエスを迎える心

十二月も後半。気付いてみれば、クリスマスはもうすぐである。とは言うものの、どうもクリスマスが近づいているという気がしない。たしかに我が家もクリスマスツリーを飾っているし、長女の幼稚園では降誕劇をやったし、街の中もイルミネーションが灯されていたり、きらびやかなデコレーションが施されていたり、私の通う教会ではないが、クリスマス礼拝のお知らせをしているところもあれば、また別の教会が聖歌隊のコンサートをするとの張り紙を目にすることもある。右を見ても左を見ても疑いなくクリスマスなのであるが、どうにも私の中でそれを自覚するところが少ないのだ。

十二月はクリスマスの季節でもあるが、古くから師走と呼ばれているように、何かと慌しい季節でもある。あれよあれよと言う間に、一日一日がせわしく過ぎ去ってしまうので、如何に目で見ようとも、耳で聞こうとも、クリスマスの雰囲気を感じるゆとりがない。

特に今年は諸々の役を負ってしまったがために、あれをやらねばこれをやらねばと、そんなことを考えているうちに時間ばかりが経ってしまう。どれをとってみてもクリスマスとは関係のないことで、普段のごたごたが今の季節も続いているのだ。

しかしそんなことで嘆いてみても始まらない。仕事も役目も責任も、求めているわけじゃなくてもやってくるのだ。無視したくともそうする訳にもいかず、淡々とこなすのみである。要するに、私のもとにやってくるひとつひとつの仕事を片付けていくだけで、時間が過ぎていくのだ。この時期特有のどこかわくわくしたような、うきうきしたような雰囲気を感じなくても仕方がないのだろう。もちろん何か寂しい気もするし、果たしてこんなので良いのだろうかと疑問に思うのであるが、これが今の日常である。

そんなわけであるから、クリスマスだと言われても、はぁ、そうですか、と思ってしまうのだ。理性ではクリスマスであることが分かっていても、気持ちの上ではクリスマスだとは感じられない。

しかし考えても見れば、クリスマスらしい雰囲気、クリスマスだから感じる気持ちというのは、イエス・キリストがお生まれになった二千年前にはなかったことなのだろう。二千年前、最初のクリスマスを知らされたのは、イエスの母であるマリヤと父となるヨセフであり、野に過ごす羊飼いたちであり、はるか遠い国からやってきた博士たちだけであった。彼らはクリスマスをどう受け止めたであろうか。

彼らにとってこれは初めてのことであった。当然ながら彼らの周りには、今日のような飾りつけもなければ、音楽もなかったことであろう。彼らはクリスマスだからと言って、特別な何かをしていたわけでもない。普段の生活の中で、ある日突然に降って湧いたかのように、彼らのもとに訪れたのである。ある日神の御使いがマリアのところへ現れて、彼女が聖霊によって子供を授けられたことを告げられた。突然のことだった。またヨセフは夢の中で、マリアは聖霊によって身ごもっていることを告げ知らされた。これも突然のことであった。そのことがあった後、二人が住民登録のためにベツレヘムに戻った時に、馬屋でイエスは生まれたのだった。当時は住民登録令が出されたばかりで多くの人々が旅をしていた。何もこの二人だけが特別ではなかった。状況が状況だけに、野山や馬屋で生まれた子供たちは他にもいたかもしれない。そして羊飼いたちが夜の寒さに凍えながら羊たちを見守っていた時に、やはり御使いが現れて、彼らにイエスの誕生を伝えたのだった。これも彼らの日常の中で起こったことである。また三人の博士たちも然り。彼らは星に導かれてイエスのところまでやってきたのだが、彼らは日夜研究を重ねるうちにそれを発見したのかもしれない。星を見ることが日常であった彼らにとっては、何も特別なことでもなかったであろう。

イエスの誕生を最初に祝った人々は、何か特別なことをしていたわけではない。彼らの日常の中で、イエスはお生まれになったではないか。それを考えると、今の私のように普段の生活に追われていても、イエスの誕生を祝っても良いのだろう。イエスがこの世界に来られたことを覚え、感謝することが、クリスマスの本当の心なのだろう。