あっと言う間に

今年も残すところあと僅かである。ついこの前に年が明けたばかりと思ったら、もう年の瀬である。年々時間が経つのが早くなっているような気がする。一日は同じ24時間しかないのに不思議なものだが、一年また一年と徐々に短くなっているような気がする。いつまでも若いと思っていても、何かで自分の年齢を書かなければいけなくなったときに、ふと自分の年齢に37という数字を書いていることに気付いて、思っているほどに若くないことを認めざるを得ない。気持ちの上では、今でも二十歳そこそこな気がしなくもないが、まだまだ人として未熟だということなのだろう。無駄に歳を重ねているだけのような気がしなくもない。

それにしても、この一年もあと数日で終わりだ。一年を振り返ってみて、果たして何か成し遂げたであろうかと考えると、残念ながら何も思い浮かばない。一日一日を過ごしているうちに、あっと言う間に一年が過ぎ去ってしまったようだ。

さて若いうちはあまり考えたこともなかったし、もちろん気持ちの上ではまだまだ若いと疑っていない私ではあるが、不幸にも病気になったり、不慮の事故や事件に巻き込まれたりしない限りは、私にもやがて年老いて死ぬ日が訪れるのであろう。まだまだ、まだまだ先のことだろうし、まだ人生の半分にも到達していないと思うが、さて、こればかりは誰にも知ることができまい。能天気な私は生命線がこれでもかと思うくらいに長いのを見て、まだまだ長生きするとか、不真面目なクリスチャンであるから当分の間はこの世界で、形はいかようであれ、神のために働かなければならないような気もするし、なんせ憎まれっ子、世にはばかるという言葉もあるくらいだから、まだまだ生きるだろうけど、やがてはこの肉体が朽ちる日がくるのだろう。などと書いたところで、想像することさえできないが。

視点を今のこの地上での人生に置くと、死ぬのは遠い先のことだと思うと、健康で過ごせることを感謝に思う。ところでちょっとばかり視点を変えて、やがて来るべき神の御国を中心に据えてみると違うものが見えてくるのではないだろうか。それこそ神の御国から見ると、私はずいぶんと遠くにいることになるのかもしれない。しかしこの世界で一日を過ごすことは一日寿命を縮めることであり、すなわち神の御国に一日分だけ近づくことになるのだろう。

この一年を振り返って見た時に、何を成し遂げたか、何に挫折したかなどと、さまざまなことを考えるかもしれない。もしかしたら私のように気付いたときには、一年が経っていたということもあるかもしれない。この一年、何もせずに無駄に過ごしてしまったと思うかもしれない。しかし、神に御国が信仰者の最終目的地であることを考えると、無駄な一日というのはないのかもしれない。聖書を読まなかった日があったとしても、それを無駄と言い切ることはできまい。祈らなかった日があったとしても、それを無駄と言うこともできまい。たしかに聖書を読み、そこに書かれていることの意味を考え、祈ることは大事なことであり、そうすることが理想と言えよう。しかし、それらを欠いたとしても、無意味に日々を過ごしたということにはならないだろう。なぜなら一日一日を生きることが、神の御国に近づくための一歩一歩なのである。

一日一日をどのように過ごそうとも、無駄な日がないのであれば、物は考えようで私たちのすることひとつひとつも無駄なことはないのではないだろうか。この一年の間に私がしたこと、もしくはしなかったことを思い出してみると、果たして何が出てくるか。すべてのことや、細かいことを思い出すことはできないが、ぱっと思い出したことをあげると、褒められたことではないが聖書を読まない日の方が多かったと思う。それでも無駄なことはなかったのかもしれない。なぜなら聖書を読まない日が多かったゆえに、後になって聖書を読まなければ気付かされたこともあるからだ。

自分がどこに向かっているかを意識すれば、一日一日が大切であることに気付くだろう。その日をどう過ごそうともたどり着くところに違いはないのだから。