神から逃げた男

今更言うまでもないが、私は完全な人間ではない。そもそも、完全な人間などいないのだが、それにしても私は完全とは程遠い者である。百点満点で言うのであれば、さて、如何なものだろうか。50点。いや、そんなに高くはないか。30点?いやいや、20点か。正直なところまるで見当がつかないし、自分で自分を評価しようとすること自体に無理があるのだろう。自分に甘く、高く評価するか、それとも自分に厳しく、低く評価してしまうかのいずれかであろう。いずれにせよ、公平な点数を出すのは難しい。もちろん私が信仰を持っているにしても、私が人より優れているわけでもないし、ましてや真面目だというわけでもなければ、善人だというわけでもない。

ところで聖書というと、正しく生きた人々のことばかりが書かれているかのような印象を受けるが、実はそうでもない。たしかにパウロのように、過去の罪を悔い改め神に立ち返り、揺るぐことのない信仰をもって神に仕えた人のことも書かれているが、そうかと思えば、神の御手によって創造されたにもかかわらず、神の言いつけを守らずに、食べてはならないと言われた木の実を食べてしまい、それを反省するどころか、人のせいにするようなアダムのような人物のことも書かれている。人というのは千差万別である。

さて昔々、ヨナという名の預言者がいた。旧約聖書のヨナ書の主人公である。実は、私はこのヨナが好きなのである。彼の完全でないところに、共感を覚えてしまうのだ。

このヨナであるが、ある時、ニネベという街に行くようにと、神に命じられたのだ。それというのも、ニネベという街は異教徒の都であり、そこに満ちていた悪意が神の目に留まることとなったからだ。神はヨナを通して、ニネベの人々に警告のことばを伝えたかったのだ。

さて、預言者であるからには、もちろんヨナは神を知っていただろうし、神を信じていたことだろう。預言者ともあれば、常に神で忠実であろうと思ってしまうのだが、このヨナは、ちょっと違った。彼はニネベに行けという神のことばに従わなかったのだ。うっかりして従わなかったとか、ちょっと気が乗らなかったのなら、まだ同情の余地があるというか、そんなこともあるだろうと思えるのだが、彼は確信犯であった。彼はわざと逃げたのだった。なぜ逃げたのかは想像の域を出ないが、もしかしたらニネベの人々を憎んで、ニネベのような異教徒の街は早々に滅ぼされて然るべきと考えていたのかもしれない。そんな街に行って神のことばを伝えるくらいであれば、どこか遠くへ逃げてしまおうと考えたのかもしれない。ヨナのそのような気持ちも、分からないでもない。

しかし、神の預言者でありながら、意図的に神に背を向けてしまうとは、愚かというか、無謀というか、あまり感心なことではない。そして神は背を向けて逃げていくヨナを、そのまま黙って見逃さなかった。神は嵐を起こし、船に乗って逃げるヨナの道を閉ざしてしまったのだ。

そこで、ふと考えるのであるが、なぜ神はヨナを逃げるにまかせておかなったのだろうか。人間的に考えてしまうのであれば、自分に背を向けて去っていく者など、勝手にしやがれとばかりに無視したいところだろうが、神はヨナをどうしてもニネベに向かわせたかったのだろう。なぜなら、それは神が計画されたことだったからだ。

たとえ信仰があったとしても、人は弱いもので、神の計画に気付かないのか、もし気付いたとしても、それが自分の意に沿わないものでれば見て見ぬ振りをするかして、自分が選んだことをしてしまうものだろう。たとえそれが神に背を向けてしまうことになってしまってもだ。しかし、神はご自身の考えておられることを実行される方であり、人の思いや考えや行動に左右されることはない。神はヨナの逃げる道を閉ざしたように、ご自身の計画を実現させるためには人の道を変えることがあるのだろう。神に身を委ねることさえできれば、それが人にとって最善なのだろう。