灰の中に座った王

大荒れの海で溺れ死ぬことからも免れ、魚の胃袋の中で最終的に消化される前に吐き出されたヨナは、三日振りに外の新鮮な空気を吸いながら、それまでの行いにも関わらず命を助けられたことを神に感謝していたことだろう。そして、今度ばかりはさすがに神に逆らおうなどとは思わなかったに違いない。神がニネベの町に行き、神のことばを伝えるようにと命じると、彼は腰を上げて、何らためらうことなくニネベに向かった。

ニネベに着くと、彼はさっそく神のことばを人々に伝え始めた。彼の伝えた神のことばとは、実に簡潔だった。

「あと四十日もすると、あなた方の町は滅ぼされてしまうのだ!」

なかなか分かり易いメッセージである。ここまで簡潔であると、あれこれ質問を差し挟む余地もないだろう。しかし、これだけ単純であると、むしろ気に掛けることもなく聞き流してしまいそうだ。もし私が横浜駅前の人ごみの中を歩いていて、誰かが「もう四十日もすると、この街は滅ぼされてしまうのだ!」と叫ぶのを聞いたらどう思うだろうか。もちろん、私は神を知らずに、叫んでいる人が神の預言者であることも知らないという前提である。だとしたら、間違いなく私はその人を、気が触れてしまった哀れな人と思ってしまうだろう。もちろん、そんな人の言うことには耳を貸そうとは思わないだろうし、ただ無視して通り過ぎていくに違いない。では、ヨナが伝える神のことばを聞いたニネベの人々はどうしたであろうか。もし私のような人であれば、そのまま聞き流していたかもしれない。

ところが、彼らはヨナの言うことを受け入れたのだ。そして、人々は神を信じ、互いに声を掛け合っては断食をし、荒布を身にまとって、それまでの罪を悔い改めて、神に立ち返ったのだった。それも身分の高いものも低いものも関係なく、誰もが等しくそのようにしたのである。やがてニネベの王にその話が伝わると、王自身も玉座から下り、それまで着ていた華美な服を脱ぎ、荒布に着替え、自ら灰の中に座ったのだった。そして布告を出して、人々に罪を悔い改めるようにと伝えたのだった。

正直なところ私の目から見ても、意外とも言える反応である。ヨナを疑う者はいなかったのだろうか。もしかしたらいたかもしれないが、ここを読む限りでは、仮に疑うものがあったとしても、多くの人々は神のことばを受け入れたのだ。虐げられた弱者が神を信じたのなら想像もできるが、最高の権力者であった王自身が荒布で身を包むような態度を取ったことも驚きである。普通に考えれば、権力のあるもの、富のあるものというのは、自らの立場を守ろうとするであろうし、聖書の他の話を読んでも、この世の中で国を治める程の力を持つものは、どちらかと言えば神に頼らず、自身の力を頼っているようである。それを考えるとニネベの王はずいぶんと従順であったと言えよう。

なぜニネベに人々がこれほどまでに素直になったのかは、私には分からない。町が滅ぼされるのを恐怖に感じたのだろうか。でも、それだけではないように思えてならない。残念ながらヨナ書には、その理由については書かれていない。まさしく、神のみぞ知る、というところだろう。しかし理由はともかくとして、ここに書かれていることは、人々がヨナの伝えた神のことばを受け入れたということである。神を信じた人々は等しく、神の前にへりくだり、その罪を悔い改め、神に立ち返ったということだ。人々が貧しかろうが、豊かであろうが、玉座から国を治める者であろうが、路傍で物を乞う者であろうが、そのようなことは、まったく重要ではなかった。神のことばの前では、そのような俗世間での立場は何ら意味をなさなかったのである。

神はそのようなニネベの人々の様子を見ると、彼らの街を滅ぼすのをやめられたのだった。彼らが罪を犯さなくなったから、神が彼らを認めたのではない。彼らのその努力、すなわち神に立ち返ろうとする思いの故に、神は彼らを哀れみ、彼らを救われたのだった。

神を求めるのであれば、それこそ口先で赦しを求めるのではなく、居心地の良い椅子から降り、灰の中に身を置くような決意が必要なのだろう。