テオピロへ 4

聖霊のバプテスマを受けるということは、すなわち神がその場におられ、神の栄光に触れるということであるのならば、果たしてそれは人にどのような影響を与えるのだろうか。五旬節の日に、集まっていた弟子たちに何が起こったかを、ルカはテオピロにこう伝えた。「聖霊に満たされた弟子たちは、御霊が話させてくださるとおりに、様々な国の言葉で話しだしたのです。」

テオピロは考えてみた。様々な国の言葉で話すとは、どういうことだろうか。一体何を話したのだろうか。イエスが数多の奇跡を行ったことは、幾度も聞いてきたが、イエスが天に上げられてからも不思議なことが続けて起こるものである。たとえイエスがこの地上を歩くことはなくても、奇跡は起こり続けるということなのだろう。ということは、神の力はたとえ目で見ることはできなくとも、現に存在し、働いているということになるのだろうか。

この日、三つの奇跡が続けて起こった。室内であるにもかかわらず、家を揺らす程に鳴り響いた風の音、そして天から下りてきた炎の舌、そしてその場にいた弟子たちが異国の言葉で話したということ。テオピロは不思議に思うよりも、感心したことだろう。神の力が働くのであれば、そのようなことも起こりえようと、妙に納得もしたことだろう。

しかし、その場で実際にこれらのことを目撃した人々では感じ方も違ったことだろう。集まっていた弟子たちや信徒たちの中には博識な人々もいたかもしれないが、そうでない人々もいた。何と言っても弟子たちのまとめ役とも言えるペテロ自身が、イエスの弟子となる前は漁師であったというくらいだ。そのような人々が地中海沿岸の諸地方の言葉で話し始めたのだから、それを聞いた人々はとんでもなく驚いたことだろう。

さらに、それを聞いた人々というのは、弟子でも信徒でもなかった。彼らは嵐のような物音を聞て、地震のような揺れを感じ、何事かと思って集まってきた野次馬たちであった。彼らはまったく予想をしていなかった光景も目の当たりにしたのだから、テオピロの感じた印象とは比べものにならなかったことだろう。

異国人たちは、弟子たちや信徒たちが彼らの母国語で話しているのを聞いて、大いに驚いた。ところが、一部の人々は彼らが酒に酔っていると嘲るのだった。

ペテロは他の十一人の使徒と共に、立ち上がると彼らに説明して言った。まず、時間もまだ朝の九時ということで、彼らは酔っぱらっているわけではないということだった。考えてもみれば、誰でも分かることかもしれない。果たして酒に酔った人間が、学んだこともない国の言葉で挨拶程度ではなく、きちんとした会話をできるだろうか。

そしてペテロたちは、彼らにキリストについて語った。「神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。ところが、あなたがたは、この方を不法な者の手によって十字架につけて殺してしまったのです。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちは、そのことの証人なのです。くどいようですが、もう一度言います。なぜなら皆さんは、このことをはっきりと知らなければなりませんから。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

使徒たちの言葉に、大勢が心を動かされた。彼らの心は痛んだ。そして彼らはそれまでの行いを悔い改め、キリストの赦しを受け入れる決心をした。その一日だけで三千人が洗礼を受け、あらたに信徒として仲間に加えられたとルカは書いている。考えてみれば、これは四つ目の奇跡とも言えよう。

聖霊に満たされることで、人は何をすることができるのか。それは富を得るわけでもなく、名声を得るわけでもない。特に悟りを開くわけでもないし、必ずしも信仰が強められということでもなさそうだ。それよりも人は聖霊によって力と励ましと知恵を得て、キリストの福音を伝えることができるということなのかもしれないと、テオピロは思った。

もしかしたらテオピロ自身も聖霊に満たされたいと考えたかもしれない。