テオピロへ 7

神からの祝福とは、一体どのようなものだろうか。そのようなことを考えていたテオピロは、いつしか眠ってしまったことだろう。神が人を祝福されるお方であることを思い、安心してしまったのかもしれない。そして、ルカが書き送ってくれた書簡を読むと、テオピロは神をより身近に感じることができたのかもしれない。なぜならそこには弟子たちを通じて、神がどのように働いて下さるのかが書かれているからだ。流して読むのはもったいないとも感じたことだろう。じっくり時間をかけて、読んでいこうと考えたかもしれない。

さて、弟子のペテロとヨハネは、足が不自由だった物乞いの男が癒されたのを目撃して、驚いていた群集に、イエス・キリストの受難、死、よみがえり、罪の悔い改め、神の祝福について語っていた。すると、神殿の責任者や祭司や律法学者もやってきた。彼らは、弟子たちがイエスの話を通して、死者の復活について語っていることを不満に思い、二人を捕らえてしまった。

なぜ彼らが、死者の復活の話をよく思わなかったのか、テオピロには分からなかった。いずれにせよ、それは重要なことではないようにも思えた。弟子たちが人々に語っていたことは、罪の悔い改めであり、神の祝福の約束であった。弟子たちの言いたかったことは、単なる死者の復活ではなく、神がイエスを死者の中からよみがえらせたということであり、弟子たちはそのことの証人であるということだった。

もしかしたら、祭司や律法学者たちにとっては、弟子たちが邪魔なだけだったのかもしれない。さもなければ、彼らの人気に嫉妬したのかもしれない。それとも、祭司や律法学者たちの教えている内容と違い、神殿の秩序が乱されてしまうと恐れたのだろうか。本当の理由は分からないが、二人と物乞いは力ずくで捕らえられてしまい、牢屋に放り込まれてしまった。

その一方で、奇跡を実際に目にし、弟子たちの話を聞いた人々の多くが、各々罪を悔い改め、形骸化していた信仰を新たにした。その数、五千人であったというから、相当なものであったろう。

翌日、エルサレムの議会に集まった指導者、律法学者、大祭司の一族は弟子たちを呼び出して、彼らを尋問した。「お前たちは何の権威によって、また、誰の名によってこんなことをしたのか。」

ペテロは聖霊に満たされて答えたという。つまり、神からの助けが、ペテロと共にあったということだ。神が彼を助けてくれるのであれば、何を恐れることがあろうか。彼は堂々と指導者たちに答えて言った。「皆さんの知りたいことが、なぜあの足の不自由だった男が、突然に立って歩けるようになったかということであれば、教えましょう。あの人が歩けるようになったのは、皆さんが十字架に付けて殺したイエス・キリストの御名によります。そして、イエス・キリストを除いては、誰も人に救いを与えることはできません。」

指導者たちには嬉しい内容ではなかったかもしれない。イエスの死の責任を言及されては、不愉快でもあっただろう。彼らの中には、二人を死刑にしてしまえという意見もあっただろうが、現実に足萎えだった男が、弟子たちと一緒に立っているを見ると、それ以上責めることもできなかった。おまけに昨日のことなので、すでに街中に話が広まっていた。厳しく罰することもできず、今後はイエスの名によって語ってはならないと注意したうえで、彼らを自由にした。

ところが、ペテロとヨハネは大胆にも指導者たちに答えて言った。「神に聞き従うのと、皆さんに聞き従うのと、神の前にどちらが正しいかどうか、分かりますか?私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいかないのです。」

彼らはあくまでのキリストの証人となることにこだわったのである。たとえ権威ある人々から戒められたとしても、神がそれを目的として与えたものであるなら、素直にそれに従うのである。それが神の前にあって、正しいことなのであろう。

目に見える人に従うのは容易であろうが、そうでない神に従うのは正しいとは分かっていても、難しいのではないだろうかと、テオピロは少し考えるのだった。