テオピロへ 11

さて、捕らえられた弟子たちは、むち打ちで罰せられた後、イエスの名によって語ってはならないと厳重に注意されたうえで解放された。これはどういうことであるかと、テオピロは考えてみた。イエスの復活を伝えるのもだめ、イエスが教えたことを広めることもだめ、病んでいる人々をイエスの名によって癒すこともだめ、ということになるのだろうか。イエスの名によって語ることは人々にとって良いことをもたらすであろうに、そうしてはならないと命じるとは、祭司や律法学者たちのわがままはきりがないと彼は思った。しかし、弟子たちにとっては彼らの言うことをなど、まったく意に介さなかった。むしろ弟子たちはイエスの名のゆえに罰せられたことを名誉にさえ思っているかのようだった。その後も、彼らはイエスが救い主であることを人々に伝え続けるのだった。テオピロは、このような弟子たちの揺るがない信仰を、さすがであると思わずにはいられなかった。

それもあってか、信徒はさらに増えたらしい。ところが、人数が増えるにつれて問題も徐々に出てくるようになった。

ことの発端は、日々の配給であったらしい。先にも読んだが、彼らはすべてを必要に応じて互いに分け合ってたという。どうやらそれがうまくいかなくなったのだろう。考えてもみれば、信仰は同じだとしても話す言語が違うのであるから、なんらかの行き違いがあってもおかしくはないだろう。

そこで、イエスと共に過ごしてきた十二人の弟子たちは、他の信徒たちを集めて、一つの提案をした。「私たちがイエス・キリストを伝えることを後回しにしてはあまりよくありません。そこで、皆さんの中から、聖霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選んで下さい。私たちはその人たちに、配給をお任せしたいと思います。そして、私たちは、祈りと伝道に専念したいと思います。」

これには全員が納得したので、聖霊に満たされ信仰の篤い七人が選ばれた。

さて、このことの結果はどうであったかというと、ルカの書簡によると、神のことばはますます広がり、エルサレムにおいて信徒の数が増えたという。テオピロはわが耳、いや目を疑ってしまったが、祭司たちの一部も信徒になったと書かれているではないか。

また、その一方で配給担当となった弟子たちの一人にステパノという人物がいたが、彼もまた、ただ配給ばかりしているわけではなく、イエスが救い主であることを人々に伝え、すばらしい奇跡を行ったとも書かれていた。

このように弟子たちの物語を読んでいると、彼らの信仰の深さというか、人々に何をされようと、なんと言われようと、ただ神を信じて突き進む潔さというか、単純さに感心してしまう。テオピロは自分と彼らの間に大きな隔たりがあるような気がした。果たして自分に、周りが何と言おうとも、一途に神に目を向けて、信仰を貫くことができるのだろうか。考えてみると怪しいものである。それだけに、弟子たちの信仰、生き方には感嘆せざるを得なかった。

しかし、改めて考えてみると、信仰があるというだけで、人は完全にはなれないというのも、また事実であるようだった。そして信仰を持つ人々が集まるからといって、そこには何の問題もないというわけでもなかった。たとえ信仰は同じであっても、言葉が違うだけで、配給が少ないという些細なことであったが、人々は不満を抱いてしまった。

ところで、テオピロは一つのことに気づいた。全能の神が介入して、この問題を即座に解決することもできたかもしれないが、そのようなことは起きなかった。ただ神の前に正しい人々を選び、彼らにすべてが委ねられたということだ。弟子たちは、福音を伝えるにしても、信徒の日常の面倒を見るにも、自らの役目を果たすのだった。結果、信徒が増えることになったのだ。それは神が彼らを通して働かれたからであろう。

神はそうしようと思えば、この世界で起きるあらゆることにに介入することもできるが、あえてそうすることはせず、神を信じる人々を通して働かれているような気がする。テオピロはそう考えつつ、信徒としての我が身を通して、神はどのように働かれるのだろうかと考えてみた。