テオピロへ 12

ルカの書簡には、ステパノという人物についても書かれていた。テオピロにとっては初めて聞く名であった。それもそうだろう。彼はイエスと共に過ごした十二弟子の一人ではなく、信徒たちの間で配給を担当する七人のうちの一人でしかなかった。とは言うものの、彼はそれ以上の働きをしていた。彼は人々の間で奇跡を行っていたのだ。いや、彼自身の力でやっていたわけではない。神の恵みと力によって、それらのことを行っていたのだ。つまり、神が彼を通して働いていたのだろう。ところが、それをよく思わぬ人々が彼に何かを言ったらしい。ルカはそこまで詳しく書いていないが、おそらく彼のやっていることを非難し、彼の信じていることを批判するようなことだったのだろう。ステパノは彼らとの議論に応じたが、ステパノは彼らを言い負かしてしまった。やはりこれも彼の知識や能力によるものではなく、神の知恵と聖霊とが彼と共にあったからだ。

腹の虫が収まらない彼らは、前々からイエス・キリストの信奉者を目の敵にしていた祭司や律法学者を煽って、彼を捕らえさせてしまった。さて、以前弟子たちが捕らえられた時、神の御使いが現れて牢獄の扉を開け、彼らを逃したことがあったことを思い出すと、今回も御使いが現れて、ステパノを窮地から救い出すのかと期待してしまった。ところが、どうやらそうはならなかったようだ。人々はステパノを即座に議会へ連れて行ってしまったのだ。ステパノには牢屋で一晩を過ごすという余裕さえ与えられなかったようだ。

彼もペテロたちがどのようにして祭司や律法学者の手から逃れたかを聞いていただろう。もしかしたら、彼もそうなることを望んでいたかもしれない。神の奇跡を目の前で見てきた彼だけに、そう思っても不思議なことではない。

ステパノは大祭司の前でやってもいないことをやったと言われ、言ってもいないことを言ったと訴えられた。彼はどう感じたことだろう。自分がこのような立場に置かれたらどうするだろうかと、テオピロはふと考えてみた。九割九分、嘘つきと、彼らを煽り立てている連中、そして、彼らの話を真に受けてしまう祭司や律法学者たちを憎むに違いない。

おまけに神からの助けがやってくる気配も感じられなければ、自分だったらさぞかし落胆することだろうと思った。神に見放されたのかと不安に思い、何もしてくれぬ神を恨めしく思うことだろう。

もし自分だったら、怒りと絶望で黙り込んでしまうことだろうと思った。

ところが、ステパノは違った。祭司や役人、律法学者や民衆の前で、臆することもなく、彼は語り始めた。

神がどのようにしてアブラハムを導き、彼に子孫を与えると約束し、その約束を果たし、アブラハムを祝福されたのかを。またヨセフが兄たちに奴隷として売り飛ばされたにも関わらず、神がヨセフと共にいて、彼を祝福し、いかに彼の家族を祝福したのかを。そして、モーセが神と出会い、神に導かれ、エジプトで苦しめられていた神の民を解放したのかを。また、人々は神の定めた戒めを守らず、自分たちが望むままに偶像を作り、それに供え物を捧げ、本当の神に背を向けてしまったかを。

おそらくステパノが言いたかったことは、神は人々を導き、祝福しようと望んでいるにも関わらず、人々は自分が良いと思うものを追い求め、神から離れていってしまったということなのだろうと、テオピロは思った。

このようなことを言われてしまっては、彼らも居心地が悪かったことだろう。そして最後にステパノは、彼らに向かってキリストの死の責任について問い掛けたのだった。

これを聞いて、人々の怒りは頂点に達した。彼らはステパノを外へ引きずり出すと、石を投げつけて殺してしまった。

なんと残酷なことであろうかと、テオピロは思った。しかし、それ以上に彼の心を捉えたのは、ステパノの姿であった。無実の罪で訴えられ、目に見える神の助けもなく、人々から石打ちにされ、まさに命を奪われんとしている時に、人々を咎めるでもなく恨むでもなく、彼は目を天に向けると、彼らのために赦しを求めたのだった。最後の最後まで、彼は神と共に歩んだのだった。