テオピロへ 14

ルカからの手紙を読みながらテオピロは考えてみた。今まで聖書を読むことで、神がどのようなお方であるかを知ったし、また他の信徒たちからキリストについての話を聞くこともあって、キリストがどのようなお方であるかを知ることもあった。しかし、改めてこのようにして、友人からの手紙の中で、キリストを信じる人々がどのように過ごしていたのかを知ると、不思議と神がよりいっそう身近に感じられるような気がした。

さて、ピリポという信仰者は、サマリヤ地方でキリストの福音について人々に語り、また神の力によって数々の奇跡を行っていた。ある日のこと、神の御使いがピリポのところに現れて、南の方へ下り、エルサレムからガザへ向かう道に出るように言った。

ピリポはどうしたかというと、素直に従ったのだった。

しかし考えてみれば、それは簡単なことではなかっただろう。彼がサマリヤに家を持ていたとか家族がいたとか、そういった理由ではない。彼は追われる身であったのだから、これと言ってサマリヤにこだわる理由もなかったはずである。しかし、御使いの言いつけに従うということは、彼が迫害から逃れてきたエルサレムの方角に行くことを意味している。つまり下手をすれば、再び祭司や律法学者や、彼らに同調する民衆や役人に捕らえらてしまうこともないとは言えない。

我が身の危険を案ずれば、何もこの時期にエルサレムの方へ行くのは、あまり賢い選択ではなかっただろう。それどころか、無謀とも言ってもおかしくはない。もし自分がこのようなことを言われたら、おそらくためらってしまうだろうと、テオピロは思った。もしかしたら、あれこれ理由をつけて行かなかったかもしれない。正直なところ、迫害に遭うのはまっぴらだった。

ところが、ここにはピリポが躊躇したようなことは何も書かれていなかった。「彼は立って出掛けた」とだけルカは書いている。まるで、家の近くの市場までオリーブ油でも買いに行くかのような気軽さである。

何が彼を待ち受けているだろうかと思ってみたが、実際何事も起こらず彼は導かれるままにガザへ続く道にたどり着いたのだった。ステパノのこともあったので、なんとなく拍子抜けした気がしなくもないが、考えてもみれば、神が何らかの目的を持ってピリポをこの場所へと導いたのであれば、無事でいても何ら不思議なことはあるまい。

さて、この場所でピリポは誰に出会ったかというと、エチオピアの女王に仕える高官の一人であった。彼は礼拝のためにエルサレムを訪れた帰りであったというから、神に対する信仰はあったのだろう。彼は馬車に揺られながらイザヤ書を読んでいた。

聖霊に導かれて、ピリポは馬車に走り寄って、彼に聞いた。「あなたは読んでいることが、分かりますか。」

エチオピアの高官が読んでいた箇所にはこのように書かれていた。「ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」

テオピロも確かめてみたが、事実イザヤ書にはそのように書かれている。

これは誰について書かれているのかと、高官はピリポに尋ねた。そこでピリポは、キリストの十字架と復活、罪の赦しと救いについて彼に話した。彼らが進んでいくと、やがて水のあるところへやってきた。そして、高官はそこで洗礼を受けることを決心したので、二人は一緒に水の中に入っていった。ピリポは彼に洗礼を授けると、そのままどこかへ姿を消してしまった。エチオピアの高官はその後ピリポと出会うことはなかったが、喜びに満たされて国へ帰って行ったという。

ピリポの神における信仰や彼の働きにも感心だが、それよりも喜びながら国へ帰るエチオピア人の姿がテオピロには印象的だった。ともすれば、キリストを知ることの喜びは、時と共に薄れてしまいそうになる。初めてキリストを知った頃の喜びを今一度思い出したいとテオピロは思うのだった。