テオピロへ 17

キリストと出会い人生が百八十度変わってしまったサウロは、キリストを迫害する者からキリストを伝える者となった。その様子を見ていた人々は驚いたそうだ。正直なところ、テオピロも驚いた。その一方で、もしかしたら何かの拍子に元に戻ってしまうことはないのだろうかとも不安にも思った。信仰を持ったからといって、過去の生き方を忘れ去ってしまうわけでもあるまい。テオピロもキリストを信じる前の自分や生活を思い出すこともあるし、ふとしたことでかつての信仰心の無い自分に戻ってしまいそうな気にもなってしまう。信仰とは本来固いものであるのかもしれないが、信仰の土台でもある神からちょっとでも目を離そうものなら、実に揺るぎやすいものでもある。

そのようなことを考えると、キリストその人、また彼の教えと復活を信じる人々を敵視していたサウロがいつまで信仰を持ち続けることができるであろうかと疑ってしまうのである。

ところがサウロはますます信仰を強めるばかりであったというから、驚きというか、テオピロにしてみれば、それほどの信仰を持てる彼のことが羨ましくさえ思えた。

そのようなサウロはどう過ごしていたのだろうか。当然のことかもしれないが、彼もまた伝統を重んじる他のユダヤ人から憎まれるようになってしまった。これがどれほど危険なことかは彼自身がよく知っていたことだろう。しかしそれだけではない。サウロは祭司や律法学者たちにとっては裏切り者となってしまったのである。かつては彼らのために働きながら、今は彼らに敵対する立場に立つことになったのだから、彼も命を狙われることとなってしまった。ユダヤ人たちは昼も夜もダマスコへ通じるすべての門を見張り、サウロが通りかかるの待ち伏せた。ところで危険を察したサウロは弟子たちの助けを借り、夜の闇に紛れて城壁を伝って何とか逃げ出すことに成功したのだった。

もしサウロが命を惜しいと思ったのならば、信仰を捨てて…いや、そうまでしなくとも自分の過ちを認めたように振舞ってユダヤ人たちに取り入れば命は救われたかもしれない。しかし彼はそのようなことをしなかった。彼の信仰が強いものであり、かつ純粋であることの顕れであるような気がした。正直なところ、彼の態度を見ると、自らの信仰がどれほどのものかと、少しばかり頼りなげにテオピロは感じてしまうのだった。

さて、ダマスコから無事に脱出することができたサウロはエルサレムへ戻ったという。かつて祭司長からの推薦状をもらって、キリスト者を捕らえんと意気揚々とエルサレムから出掛けたサウロは、今やキリスト者として命を狙われる立場で戻ってきたのだから、なんとも皮肉なものである。

エルサレムにひそかに戻ってきたサウロは他の弟子たちと会おうとしたが、なかなかそうはいかなかった。弟子たちは彼が信仰を持ったとはとても信じられなかったようだ。罠かもしれないと恐れていたようでもある。それもそうだろう。以前彼らの仲間であったステパノが捕らえられたときに、彼が殺されることにサウロが賛成していたことはすでに知られていたことだろう。彼らにしてみれば仲間の仇である。それなりの葛藤もあったかもしれないだろうと想像はつく。

ところが、バルナバがサウロのために弁護をしたので、ようやく弟子たちも彼に心を開いたのだった。彼は弟子たちと行き来をする一方で、キリストの福音を大胆に伝えたのだった。ユダヤ人と議論することもあったようで、再び彼の命は危うくなってしまった。そこで弟子たちは港湾都市カイザリアから船でローマの支配にあったタルソへ逃がしたのだった。ルカの手紙を読んでいると、どうやらこのようにしてキリストの福音が諸地方へ広がったことを知ることができる。

神はどのような不利な状況にあっても、そこから良い結果を生じさせると言われているが、まさにこれがそれなのであろう。しかし、神の力の偉大さを知るのは、単なる不利な状況というのではなく、神に敵対する者をも味方にしてしまったことにあるだろう。それも単なる味方というのではない。御自身の目的を達成させるための働き人とさせてしまったのだ。ならばすでに神の味方である自分も働き人になれないものだろうかと、テオピロは思った。