テオピロへ 18

ルカの手紙は再びペテロについて書かれていた。彼はあらゆるところを旅していた。

時にペテロはルダという町の信徒を尋ねていた。ところが、そこには八年間も病を患って寝込んでいたアイネヤという人がいたそうだ。テオピロも幾度か体を壊したことがあったが、さすがに一週間以上も寝込んだということはなかった。わずか数日でも辛いというのに、八年間とは想像することすらできないと思った。

ペテロは彼に会ってどうしたかというと、こう言ったそうだ。「イエス・キリストがあなたを癒して下さるのです。ですから、立ち上がりなさい。」

するとアイネヤはすぐに起き上がったという。さすがに今さらテオピロにとっては驚くようなことでもないが、その場にいて、彼が起き上がるところを見た人々はたいそう驚いたことであろう。アイネヤが癒されたことを聞いたルダの町に住む人々の多くが罪を悔い改めて神に立ち返ったという。

それにしてもなぜ人は奇跡を目の当たりにすると、神に目を向けるのだろうかと考えてみた。やはり人間の理解を超えたことが現実に起こっているのを見たり聞いたりすると、そこに神の力を感じるからなのだろうか。そして神を現実の存在として知るからだろうか。テオピロはまだ奇跡が起きるところを見たことがないが、もし彼の理解を超えたことが目の前で起きたとしたら、やはりそこにある神の力を認めることになるのだろうか。

しかし、それだけでは十分ではないような気がした。ペテロは「イエス・キリストが…」と言っている。一番重要なのは、ただ奇跡が起きたということではなく、キリストが奇跡を起こしたということなのかもしれない。もしペテロが「あなたは癒されます」と言ったとしたらどうだったろうか。もしかしたら人々はペテロのことを、病を癒すことのできる神として崇めてしまったかもしれない。それはペテロの求めていることではなかった。そうなることがないように、誰がアイネヤを癒したのか、誰が人を癒す力を持っているのかをはっきりとさせるため、このように言ったのかも知れない。

さて、ペテロが滞在していた町の近くにヨッパというもう一つの町があった。ヨッパにはタビタという名の女性の信徒が住んでいたらしい。彼女は人々に親切であり、恵まれない人々に施しをしていたという。ところが、彼女は病気になり間もなく死んでしまった。彼女と親しかった人々は大変に悲しんだことだろう。病で八年間寝込んでいるのも辛いが、病で死んでしまうのもまた辛いことであろう。周りの人々を苦しませるということを考えてみると、アイネヤの病よりもタビタの死の方が悲しむべきことであったのかもしれない…。もっともそれは人間的な考えでしかないが。

ところでヨッパにいた弟子たちは、人を送ってペテロにすぐに来てくれるようにと願った。ペテロは急ぎヨッパへ向かい、タビタの亡骸が置かれている家へと出掛けて行った。

彼は人払いをすると、彼女の亡骸の側でひざまずき祈った。彼が何を祈ったかはここには書かれていない。自分だったら、どのように祈るだろうかと、テオピロは考えてみた。後に残された人々が慰められるようにと祈るだろうか。彼女の霊が平安のうちに天国へ行けるようにと祈るだろうか。しかし、彼女が再び生きるようにとはさすがに祈ることはないだろう。なぜなら、それはテオピロの考えるところではまずあり得ないことだからだ。

ところがペテロはそのように祈ったのかもしれない。祈った後、彼女に「起きなさい」と言ったのである。もしかしたら彼女が息を吹き返すことを信じていたのかもしれない。期待を裏切ることなく、彼女はペテロに言われるまま起きたのだった。

このことが人々に知れると、ヨッパの町でも多くの人々が神に立ち返ったのだった。

この時は、イエスの名によってタビタに起きるようにと言ったわけではない。しかし、彼はまず祈ったのだった。人々はペテロが祈るところを見たわけではないが、もしかしたら祈る声を聞いたのかもしれない。細かいことは分からないが、人々はタビタが生き返ったのは神のわざであることを知ったに違いない。

人々が神になかなか目を向けないのであれば、それは神の働きが目立たないからなのだろうか。いや、神が働かないわけではない。もしかしたら人が神の働きを妨げているのではないだろうか。