テオピロへ 19

ペテロはその後もしばらくの間、ヨッパに滞在していた。

ところで、ルカは話題を少し変えて、ここではローマの軍人について書いていた。その人はコルネリオという名で、百人隊の隊長であった。彼はユダヤ人たちに対して親切であった。そればかりか、彼や彼の家族は信心深い人たちであり、神に祈ることを欠かさなかったという。

ユダヤ人たちはローマの支配下にあったことを考えてみると、コルネリオはユダヤ人をどうすることもできたであろうが、あえて彼はユダヤ人に対して親切であったのだ。もしかしたら、ユダヤ人の敬虔さが彼の心を捉えたのかもしれない。神に対して忠実であろうという人々に対して、無関心な態度をとれなかったのだろう。

なぜコルネリオと彼の家族が神を敬っていたのかは、何にも書かれていないから、わからない。何か惹かれるものを感じたのかもしれない。もっとも彼らが、神はどのようなお方であるかをどの程度知っていたのかも定かではない。彼らの能力と理解を超えた、何らかの優れた存在としての神を漠然と信じていたのかもしれない。それでも、欠かさずに祈っていたということや、彼のユダヤ人に対する態度を考えてみると、彼は何事にも真剣な人間であったのかもしれない。

神は、そのようなコルネリオのことを放っておかれなかったようだ。ある日の午後、彼が祈っている時に、神は御使いを彼の幻の中に遣わした。そして御使いは彼にこう伝えた。すなわち、彼の祈りとユダヤ人への施しが神の目に留まったということ、そしてもう一つはヨッパにいるペテロという人を招くということであった。そこで彼はしもべと信頼のおける部下のひとりを呼んで、事情を説明した上で、彼らをヨッパに送り出した。コルネリオに何のためらいもなかったようだ。

ここでルカは再び話をペテロのことに戻している。ちょうどコルネリオの遣わした人たちがヨッパの近くにいる時のことだった。ペテロは祈りを捧げようと屋根の上に出ていたのだが、時間も正午に近かったので腹も減っていたらしい。食事の用意が整うのを待っていた彼は夢見心地になってしまった。もちろんこれくらいならテオピロでも身に覚えがある。ところが、彼は夢の中でシーツのようなものの上に地上の様々な生き物が載せられて、空から降りてくるのを見たという。それらの動物を殺して食べるようにと、声が言うのを聞いたのだが、ユダヤ人である彼は不浄とされている生き物を食べることはできないと、声の主に答えた。するとその声は、神が清めたものを清くないと言ってはならないとペテロを諭したのだった。そのようなやり取りを繰り返した後、シーツは再び天に上げられてしまい、ペテロは腹を空かせたまま目を覚ましたのだった。彼が夢の意味について思いを巡らせていると、聖霊が彼に話しかけた。彼を訪ねてやってくる三人の求めているとおりにしなさいということだった。それというのも、その三人をペテロのところに遣わしたのは聖霊である神ご自身であるというからだった。

いや、三人を遣わしたのはコルネリオであるのだが、コルネリオにそう命じたのは神の御使いであり、神の御使いをコルネリオに遣わしたのは、神ご自身であるから、三人は神によって遣わされたと言えないこともない。

さて、ペテロは三人と一緒にコルネリオの所へと出掛けた。ペテロに出会ったコルネリオは彼の前にひれ伏し彼を拝んだ。ペテロは慌ててコルネリオに顔を上げるように言った。そして、二人は互いに神がそれぞれに示されたことについて語った。

ようやくペテロは夢の意味が分かった。ユダヤ人である彼にとって、ローマ人であるコルネリオの所へ尋ねるのは律法に適うことではなかった。ペテロのような弟子の口から律法に適うの適わないのと聞くのは、なんとも不思議な感じだったが、ユダヤ人であるからには気になってしまうのだろう。しかし、コルネリオのような異邦人でも、神を敬う心があれば、異邦人であるかどうかは神にとって重要なことではなかったようだ。神を信じ、正しいことを行うのであれば、神はその人を受け入れてくださるのだ。ペテロが言っているように、神は偏ったことをしないお方なのである。神が受け入れた人を、人が認めないというのは、神の判断を疑うという過ちになるのではないかと、テオピロは我が身を省みた。