テオピロへ 20

神はユダヤ人ではない人々、とりわけ神を信じており他人に対して良い行いを行っている人々のところに御使いを遣わした。また弟子のペテロには夢を通して語りかけ、そのような異邦人のところへ躊躇うことなく出掛けていくようにと伝えた。こうしてペテロは、異邦人が神のことばを求めている姿を見るや、神は分け隔てをされない方であることを知ることになったのだ。

おそらくローマの軍人であったコルネリオは、まだイエス・キリストのことについては詳しいことは何も聞いていなかったのかもしれない。御使いはそのことについてペテロから聞くようにと、コルネリオに伝えたのだろう。そこでペテロは、キリストがどのような働きをされたのか、彼とそこに集まっていた人々に教えて聞かせた。

さて、ここまで読んでテオピロはひとつ気になるところがあった。どこであるかというと、ペテロがコルネリオたちにイエスが誰であるかを説明しているところで、ペテロがキリストのことを「すべての人の主」であると言っている箇所だ。キリストが主であるということは、今までにも幾度となくペテロをはじめ弟子たちが人々に教え続けてきたことだろう。しかし、すべての人にとっての主であるという考えは、ここで初めて出てきたように思えた。もっともテオピロがどこかで見落としていなければであるが。

キリストはユダヤ人にとっての王であり救い主であるという印象が強かったが、この出来事を機に、キリストはすべての人々にとっての王であり、また救い主でもあるということが明らかにされつつあるようであった。

さてルカの手紙を読み進めていくと、それを裏付けるかのようなことが書かれていた。なんとコルネリオたちが聖霊に満たされたのだった。ルカが手紙の冒頭で書いていた、エルサレムで信徒たちが聖霊に触れられた時の様子を思い出させるかのようだった。

エルサレムの信徒たちがそうしたように、そこに集まっていたコルネリオたちローマの人々は、かつて彼らが学んだことのない国の言葉で語り、神を賛美したのだ。

この様子を目の当たりにしたペテロは、神ご自身が聖霊を通じて彼らに直接触れられたのであれば、彼らが洗礼を受けることを、一体誰が妨げられようかと考えたに違いない。そこでペテロは、キリストの名によって彼らに洗礼を授けたのだった。

さてこの話はエルサレムにいた弟子たち、信徒たちにも伝わることとなった。

本来であれば、異邦人たちでさえも神を信じるようになり、神を受け入れ、聖霊に満たされ、キリストの名によって洗礼を受けたとなれば、それは喜ばしいことであったろう。ところが彼らの中にはそれを受け入れがたいと感じる人々もいたようだ。

そこでエルサレムに戻ったペテロは、そのような信徒たちに事の次第を詳しく話して聞かせた。彼はこのように話を結んだ。すなわち神がユダヤ人の信徒たちに与えた聖霊を、異邦人でも信仰を持つ人々に与えられたのであれば、誰が神のその働きを止めることができようか、ということであった。すべては神がなさることであると、彼は知ったのだろう。この言葉は信徒たちの心に響いたようだ。

神が働かれていることを改めて知った人々は、異邦人たちにも救いが与えられたことを知って、神を称えたのだった。

ルカによると、迫害に遭って諸地方に散らされた信徒たちは、行く先々でキリストの福音を語ることがあったが、彼らはユダヤ人以外にはそれを話すことがなかったという。おそらく彼らが異邦人と親しくすることに躊躇いを感じていたからだろう。もしかしたら、異邦人に対して嫌悪感を抱いていたかもしれない。なんとも心が狭いことと思ってしまいそうだが、キリストは彼らの王であり救い主なのである。あまり彼らのことを責めることもできまい。しかし、コルネリオの身に起こったことを考えると、キリストは彼らだけの王ではなく、すべての人にとっての王であり救い主であるということになるのだ。

キリストの救いは選ばれた人々にだけ与えられたものではない。神を信じる人々に、分け隔てなく与えられているものなのだ。