テオピロへ 22

福音が如何に多くの人々に伝えられようとも、ユダヤ人に限らず異邦人さえもキリストを信じ受け入れるようになって、信仰を持つ人々が神である聖霊に触れられようとも、そうでない人々もまだまだ大勢いた。信仰者であるルカの視点から見ていたこともあって、あまり考えてことはなかったが、まだまだ世の中の大半の人々はキリストを信じておらず、迫害は下火になるどころか、むしろ激しさを増すかのようであった。

テオピロも自分を振り返ってみて感じたのだが、実際自分がキリスト者であることを大っぴらにはしていなかった。ひたすらに隠しているわけでもないが、自ら進んで世間に伝えようとは思わなかった。後ろめたいことをしているわけでもないのに、ただ人が何と思うかと考えてしまうと、ちょっとばかり不安に思ってしまうのである。

さて、ヨハネの兄弟でヤコブという弟子がいた。彼はキリストによって選ばれた弟子のうちでも初めの頃に声を掛けられた人物だった。そう考えてみると、弟子たちの中でもキリストと過ごした時間はそれなりに長い方であったのかもしれない。それだけにキリストのことをよく知っていたことだろう。故に人々にキリストがまだ地上にいる頃に行った奇跡の数々を細かに人々に伝え、キリストが語った言葉のひとつひとつを教えることができたかもしれない。そして、彼の話を聞いた人々の多くが、キリストを信じるようになったとして不思議なことではない。ところが彼にとって不幸なことに、どうやらそれがヘロデ王の目に留まったようだ。彼は捕らえられて剣で殺されてしまった。

ヤコブが処刑されたことを知ったユダヤの人々はどうしたことだろう。彼の死を残念がっただろうか。ヘロデ王を残忍な人物と思っただろうか。いや、人々は彼の死を歓迎したのだった。これだけでも、いかにキリスト者が人々から疎まれていたか、目の敵にされていたかが分かるような気がする。人々がヤコブの死を喜ぶ様をみて、すっかり気を良くしてしまった王は、キリスト者のことをさらに苦しめてやろうと考えたに違いない。そしてとうとう弟子たちの中心的存在であったペテロを捕らえてしまった。ちょうどそれは過越の祭りの時期でもあったため、祭りの後に彼を民衆の前に引き出そうと、彼を牢獄に閉じこめてしまった。

その一方で、ペテロが捕らえられたことを知った信徒たちは彼にために祈り続けたという。そしてヘロデが彼を民衆の前に引き出そうと考えていた前の日の夜に、神の御使いが牢獄で眠っていたペテロに現れた。

やはり神は人々の祈りを聞き、窮地に立たされた弟子を救われる方なのである。しかしその一方で、ヤコブやステパノ、そして他の信徒たちが捕らえられ、辱められ、殺されてしまったのは何故かと考えてしまう。しかし、そのようなことを考えたところで、正直テオピロにはなぜなのか分からなかった。助かる者もいれば、助からぬ者もいる。それぞれに理由はあるからなのだろう。

ペテロは御使いによって助けられるのだが、その方法があまりにも現実的過ぎるので、滑稽にさえ思われた。まず御使いはペテロの脇を叩いて起こし、さらに身支度をさせたばかりか上着を着るように命じたのだった。面白いことに焦っている様子がまったく見られないのだ。牢屋から逃げ出すというよりは、まるでどこかに出掛けるかのようである。やがて彼は導かれるままに、街の通りにまでやってきた。ここまで来て、ようやくペテロは何が起こったのに気付いたという。彼はすべての災いから救い出されたことを知ったのだ。

ところで、キリスト者を苦しめようとしたヘロデ王はその後どうなったのか。ある時、王は民衆の前で演説を行ったという。その様子を見た人々は、神の声のようだと口々に言った。王は民衆から崇められ、すべての栄光を自らのものとした。自己に陶酔した王は神の怒りを買い、命を落とすことになった。

そして人々が夢中になって迫害したキリストの福音は止まることを知らず、ますます広がり続けるのだった。神が認めたものは、どのような抵抗を受けようとも、力が増し加えられるということなのだろう。そう考えてとき、テオピロはふと思った。キリスト者であることを誇りに思ってもよいのではないだろうか。