テオピロへ 24

ところでサウロは、またの名をパウロと言った。彼はバルナバと共に神のことばとキリストの働きについて人々に伝えるために旅を続けていた。

船で海を渡り、陸路を歩き続けた彼らは、やがてピシデヤのアンテオケという町に着いたそうだ。二人は安息日にユダヤ人の会堂を訪れた。その土地の人々はかねがね彼らの噂を聞いていたのだろう、二人に是非とも話をしてくれるようにと頼んだそうだ。どうやらすべてのユダヤ人たちが彼らに対して敵意を抱いていたわけでもなさそうだ。やはりエルサレムから遠く離れた土地にいると、冷静さを保てるのだろうか。してみると、人々の声に左右されることなく、神のことばを聞こうという思いも大切なのだろう。

さて会堂ではパウロが立ち上がって、人々に語り始めた。彼は人々に呼びかけるときに「イスラエルの人たち、ならびに神を恐れかしこむ方々…」と言っている。想像するに、そこには生まれつきのユダヤ人だけではなく、異国人でありながらイスラエルの神を信じた人々もいたのだろう。パウロの話は聞く耳がある者なら誰でも聞くことができたのだろう。彼はユダヤ人の歴史について、エジプトでの奴隷として苦しめられた後に神によって解放されたこと、かつて神がサウロやダビデを王として君臨させたこと、そして最近の話として、ダビデの子孫からイエス・キリストがこの世に遣わされたこと、またバプテスマのヨハネがイスラエルの人々に悔い改めについて告げていたことを話した。彼はその締めくくりに、こう言った。「この救いのことばは、私たちに送られているのです。」

なぜパウロがこう言ったのかテオピロは考えてみた。救いは民族を超えただけではなく、時間も超えているということなのだろうか。神は遠い昔エジプトの地で奴隷として酷使されていたイスラエルの人々を救った。同じ神が今はイエス・キリストを通して民族を超えたあらゆる人々を救われるということをパウロは伝えたいのだろうか。

さらにパウロはイエスの死と復活について語り、それが旧約聖書における神の約束が実現されたことであると教えたそうだ。罪の赦しはキリストを通して与えられていると、彼は教えた。パウロに言うことには、モーセの律法は人々を縛り付けることはあっても、人々を罪の意識、いや罪そのものから解放させることはできなかったが、キリストを信じることによって人は罪から解放されるということだ。

どれほど潔癖に生きようとも、過ちを犯すまいと気をつけようとも、人は完全にはなれないのだ。それはテオピロ自身もよく分かっている。だからこそ、神が手をさしのべ、キリストを通じて人を救わなければ、人は本当に罪や、罪の意識、罪の結果から逃れることはないのだろう。人はただ、神の救いを信じ、受け入れるだけでいいのだ。テオピロはパウロの言うことに、まったくその通りだと思った。それとともにいかに自分がそれを必要としているかに、改めて気付いたのだった。

話を終えたパウロとバルナバは会堂を去ろうとしたが、人々は次の安息日にも同じことを話して欲しいと頼んだ。そればかりか、ユダヤ人も異邦人もふたりのところへやってくるのだった。そんな人々を神の恵みのうちに留まり続けるようにと励ますのだった。

一週間が経ち、再び安息日がやってきた。今度は町中の人々の多くが神のことばを聞くために集まってきた。ところが、少数派であったかもしれないが、二人を良く思わないユダヤ人たちがここにもいた。彼らは目立っているパウロを恨み、ことあるごとに彼に反対し、彼の悪口を口にするのだった。二人は邪魔する人々を神の恵みと罪の赦しを自ら拒んだ者と見なし、これからは異邦人のために神のことばを伝えることを宣言したのだった。とは言っても二人が勝手に決めたことではなかった。あくまでも神のことばに従ってのことだったと言えよう。それというのも旧約聖書に、異邦人のための光となり、世界の果てにまで救いを伝えるという言葉が書いてあるからだ。これを聞いた異邦人たちは喜び、主を褒め称え、多くの人々が信仰を持つに至ったのだ。神のことばはさらに広がり続けた。

業を煮やしたユダヤ人たちは力のある人々をそそのかし、二人を町から追い出してしまった。それでも、彼らはがっかりするでもなく、喜びに満たされ、聖霊に満たされ、次の町へと向かうのだった。

救われるのも信仰であるのなら、救いの知らせを告げるのもまた信仰なのだろう。