テオピロへ 25

ルカの手紙を読むと、パウロとバルナバは行く先々でキリストの福音を伝え、またそれだけでなく数々の奇跡を行ったことも分かる。二人は自らの力を頼んでこれらのことを行っていたわけではない。彼らは神に力を与えられていたのだ、いや、正しく言うならば、神の力が彼らを通して現されていたということか。彼らの話を聞き奇跡を見た人々は、ユダヤ人であろうとギリシヤ人であろうと関係なく、キリストを信じるようになった。それも少しではなく大勢いたという。その一方で彼らをこころよく思わないユダヤ人たちもまたおり、そのようなユダヤ人たちは他の人々を煽り立てては二人を殺そうとするのだった。しかし、彼らは常に難を避けることができた。やはりこれも、神が二人のことを導き守っていたからだろう。彼らはこうして福音を伝える旅をしていた。

さて、それまで居た町で命を狙われ、何とか逃げ出した二人はルステラという町にたどり着いた。いつものようにパウロが町の中で人々にキリストのことを話していると、そこに座ったまま動こうとしない男がいることに気付いた。彼は生まれつき足の自由の利かなかったという。ところが、パウロはそこに見出したのはただの足の不自由な男だけではなく、神を信じて疑わない信仰を持った男の姿だった。なぜパウロにそれが分かったのかは、不思議としか言いようがない。おそらく神がパウロに示したのかもしれない。もしそうであれば、何も不思議なことではあるまい。

パウロはその男に向かってひとこと、自分の足で立ちなさいと言った。

すると男は言われるがままに立ち上がったそうだ。いや、ただ立ち上がっただけではなかった。男は飛び上がって、歩き始めたという。

それを見ていた人々は大変に驚いたことだろう。ところが人々はパウロとバルナバを見て、ギリシヤの神々が人となって彼らのところへやってきたのだと騒ぎ始めた。そこで、人々はバルナバをギリシヤの神々の中でも最も力のある神であるゼウスと呼び、パウロを伝令の役を務める神ヘルメスと勝手に決めつけてしまった。そればかりか、ギリシヤの神々を祭った神殿の祭司が、いけにえとするために数頭の牛と花飾りを持ってきて、彼らに捧げようとした。この様子をみて、今度は二人の方が驚いてしまった。

妙な言い方になってしまうかもしれないが、彼らは迫害されることには慣れていただろう。実際、命が危険に晒されることが幾度もあったし、それなりの覚悟もできていたことだろう。ところが、神々として人々から礼拝されてしまいそうになることは、さすがの彼らも想像すらしていなかったに違いない。下手をしたら神に逆らうことになりかねないので、むしろユダヤ人に命を狙われることよりも恐ろしく感じたことだろう。

二人は群衆に向かって、今すぐやめるようにと叫んだのだった。彼は人々に、自分たちはただの人間であり、天地万物を創造された神のことばを伝え、人々が真の神に戻るようにと勧めているだけであると説明した。そして二人は人々に神がどのようなお方であるかを教えたのだった。その中身はこうであった。彼らが神の言葉を伝えるまで、神は人々がそれぞれの信じるところによって歩むことを認めていたこと。その一方で神は人々の生活にまるで関わりを持たなかったわけではないこと。すなわち森羅万象を通して人々に恵みを与え、人々の心を満たしてきたこと。

ここでようやく人々は納得したらしく、いけにえを捧げるのをやめたそうだ。

ところで、これはテオピロも初めて聞くような気がした。それとも今まで気付かなかっただけなのかもしれない。テオピロが時々疑問に思うことに、神の言葉を耳にする機会がなかった人々はどうなってしまうのだろうか、果たして神の祝福を受けられのだろうかということがあった。しかし、二人の言葉を聞いて気付いたことは、天から降る雨も、この世界を照らす太陽も、夜空に輝く星々も、季節の移り変わりも、すべての収穫物も神から与えられているものであり、その人が気付いていようといまいと、神からの恵みであるということだ。そう考えてみると神の祝福はすべての人々に与えられているのである。バルナバとパウロは、そのように人々を祝福している神を、まだ神に気付いていない人々に知らせようとしているだけなのかもしれないと、テオピロは考えてみた。それは簡単そうで難しいことのようにも思えるのだった。