テオピロへ 29

神の霊に導かれたパウロたちは、ピリピという都へとたどり着き、しばらくそこに滞在することとなった。

ある安息日に彼らは川辺にある祈りの場へと出掛けていった。そこに女性たちが集まっていたので、パウロは彼女たちに神のことばを教えた。彼女たちの夫たちがパウロのことを家で噂をしていたかもしれないし、もしかすると彼女たちもパウロの話を聞きたいと思っていたかも知れない。男性のように行きたいところに行けるような自由がなかったであろう彼女たちは、会堂に行くこともなく川辺でパウロの話を聞けるという意外な機会に恵まれ喜んだことだろう。神のことばはすべての人に公平に与えられているということに違いはない。

ところで集まった女性たちの中にルデヤという名の、紫色に染めた布を売って生活をしていた女性がいた。貝殻の色素を使って染め上げた紫色の生地は高級品と見なされ、普段は用いられることはなく特別な場合にのみ用いられたという。そうすると、このルデヤという女性は裕福であったのかもしれない。さて、この女性は神を敬う人であったので、おそらくパウロの話すことに聞き入っていたことだろう。すると、神が彼女の心に触れられたので、パウロの語ったことが彼女の心の中にとどまったという。やがて彼女はキリストを受け入れ神に立ち返り、彼女の家族もキリストを信じ、バプテスマを受けるにまでになった。彼女はパウロを自宅に招待し、泊まっていくようにとせがみパウロを困らせてしまったほどだ。

ここではルデヤのことしか書かれていないが、もしかしたら他の女性の心にも神は触れられたのかもしれない。ではなぜルカはルデヤのことを書いて寄越したのだろうかと、ふと考えさせられた。もしかしたら彼女が神を敬う女性であったということが、彼女の存在を一際目立たせたのかもしれない。

ところがそう考えてみると、ひとつ不思議に思えてしまうことがある。彼女が神に対して敬虔な思いを持っていたのであれば、あえて神が彼女の心を開くことせずとも、パウロの話を聞くことによって彼女はキリストのことを信じていたかもしれない、ということだ。

しかし見方を変えると、こう考えることもできよう。すでに人の思いや気持ちが神に対して向いているのであれば、神は容易にその人の心に触れ、その人の心を開き、神のことばがその人のうちに留まりやすいように備えて下さるということなのかもしれない。

ところで、もう一人の女性のことをルカは書いている。彼女の名が何であるかは分からないが、確かなことは彼女は奴隷であり、また占い師であったということだ。彼女の占いが当たるのかどうかは、これも何も書かれていないので分からないが、彼女の雇い主が彼女を通して莫大な利益を得ていたということを考えると、彼女の占いは満更でもなかったのかもしれない。もっとも全知全能である神を除いては誰も将来を知り得ることはできないから、彼女の言うことの大半は眉唾ものであったかもしれない。どういうわけか人というものは先に起こることを知りたがるものである。人にそのような欲求がある限りは、彼女の言うことが間違っていようとも、人は彼女のところへやってくるだろう。そして彼女の雇い主は何もせずとも濡れ手に粟である。さて、彼女の占いの種明かしであるが、彼女は占いの霊に取り憑かれていたのだった。なぜ彼女がパウロと関わりあうことになったか不思議なものであるが、彼女はパウロたちを見つけると、彼らの後についていって一度ならず、何日間もこう言い続けたという。「この人たちは神から遣わされた人たちです。この人たちは救いの道を教えているのです。」

さすがにパウロたちもこれには閉口してしまったようだ。パウロは彼女に憑いていた霊に向かって、彼女を解放するようにとキリストの名によって命じたのだった。霊は彼女から出て行った。しらふに戻った彼女がその後どうなったかは分からないが、もしかしたらパウロの語る神のことばを聞き、神に立ち返ったかもしれない。

知識として神を認めていた霊はパウロにより追放された。その一方で神に心を向けていた女性は、神によって救いに導かれた。神に心を向けることは、神についての知識を持つこととは比べられない程の祝福のように思われる。