テオピロへ 30

パウロたちは女奴隷を占いの霊から解放した。それはそれで彼女のためにはよかったのだが、彼女の雇い主にとっては、相当な痛手であったに違いない。腹を立てた雇い主はパウロとシラスを捕まえて、役人に訴えようと二人を広場へと連れて行った。彼の言い分は、ユダヤ人であるパウロとシラスが、ローマ人が実践してはならない習慣を人々に伝え、町の人々を混乱させているということであった。それが本当なのかどうか、パウロたちの教えていることのどこがローマ人の習慣に合わないのか、テオピロには分からなかった。もしかしたら、雇い主の言い分もある程度は理に適ってたのかも知れないし、そうでなかったのかもしれない。もっともそんなことはどうでも良く、何かと理由をつけて二人を罰したかっただけなのかもしれない。

さて女奴隷の雇い主に扇動されたのかどうか定かでないが、広場にいた群衆もパウロとシラスの行いに対して異を唱えたために、裁判官は二人を罰するようにとの判決を下した。二人は上着を脱がされると、幾度となく鞭打たれた挙げ句、足枷をはめられ一番奥の牢屋に閉じこめられてしまった。

ここまでされたら恨み言のひとつやふたつ言いたくなるだろう。ところが、二人は自分たちの身に起こったことを嘆くでもなく、訴えた人や群衆を恨むでもなく、裁判官や看守を憎むでもなく、神に祈りを捧げ、他の囚人の耳に入るほどの声で神を賛美する歌をうたったというから、彼らの態度には驚かされてしまう。もしも自分がそうなったら、間違いなく一晩中自分をこのような境遇に追いやった人々を恨んでしまったことだろう。このような時にこそ神に目を向けるのが大事なのであろうが、そうと頭では分かっていても、そのような気持ちにはならなかったに違いない。そう考えてみると、なぜ二人はこのような状況にあっても、神に思いを向けることができたのであろうかと、不思議に思えてしまう。彼らはそれだけ神を信頼していたからなのだろうか。確かに彼らの信仰はそれだけ力強いものであったろう。このようなパウロたちの様子を聞くと、彼らのようでありといと思わせる、まさしく信仰者の鑑ではないか。

ところがそう思う一方で、やや人間的なことかもしれないが、こうも考えてしまうのだった。もしかしたら彼らも人であるから、鞭打ちの傷はひどく痛んだことだろうし、彼らを投獄した者たちへの不満と憤りや、このような境遇に置かれたことへの不満さえ覚えたかもしれないし、暗い牢獄にいることの寂しさを感じたかもしれない。彼らがそのように感じたとしても、それは彼らの信仰が薄いとか足りないとかではなく、人として感じて当然のことのように思える。しかし、それでも彼らが神に祈り、神に賛美を捧げたという事実に違いはないのだ。もし二人が人として苦悩していたのなら、何が彼らの目を神に向けさせたのか。これも気になることである。もしかしたら、それは彼らの神を求める思いの強さなのかもしれない。辛いとき苦しいときにこそ、神に救いを求める。考えてみれば、これも人として、ことに信仰者にとっては当然、いや自然なことであるのかもしれない。神をおいて誰が人を苦難から解放することができようか。

ともあれ、パウロとシラスが牢獄のうちから神へ祈り、賛美を捧げていると、地震が起こり獄舎の土台が揺すぶられ、囚人たちをとめておいた鎖がはずれ、扉も開いてしまった。偶然と言うにはあまりにも不自然過ぎるというか、都合が良すぎるような気がする。神が二人の祈りに答えたと言えよう。

さて囚人たちが逃げ出したと思い込んだ看守は、後で上官から責任を問われることを恐れたあまり自害しようとしたが、誰一人として逃げていないとパウロに告げられ、剣を下ろした。その後、看守はパウロとシラスを自らの家に連れて帰り、二人の傷を手当てし食事を用意しもてなした。彼と彼の家族は二人から神のことばを聞き、罪を悔い改め、バプテスマを受けた。二人と看守と彼の家族は神を信じたことを互いに喜びあったのだ。

その時その場の状況や、気持ちに左右されずに、神にまっすぐに目を向ける思いと行いが大切なのだろう。もしかしたら多く語る言葉よりも、人に強い印象を与えるのかもしれない。