テオピロへ 32

アテネを去って後、パウロはコリントという町へやってきた。

コリントにおいてもパウロはイエスがユダヤ人たちが待ち望んでいた王であり、救い主であるという神のことばを人々に伝えることにすべてを捧げていた。ところが、いくら彼が必死になって伝えようとも、ユダヤ人たちは彼に耳を貸さないばかりか、彼を罵ったり乱暴を働いたりするものだから、とうとう彼はユダヤ人のところから去ることにした。彼は人々に向かって、彼らの罪の報いは彼ら自身の上にあるだろうと言い、自分は異邦人のところへ行くと告げた。幸いユダヤ人のうちで信じた者もいたし、何よりその土地の人々の多くがキリストを信じるようになった。

ある晩のこと、神はパウロの幻の中に現れて、こう言ったそうだ。「恐れてはいけない。黙ってはいけない。語り続けなさい。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲い、あなたを傷つける者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」

なぜ神はこのようなことをパウロに言ったのだろうか。そのような疑問がテオピロのうちにわいてきたので、しばらく考えてみることにした。

自らの身に迫る危険を顧みず、神のことばを伝え続けるパウロに、神は休めとは言わなかった。神は彼に神のことばを語り続けるようにと言ったのだ。つまり神のことばを語るということに終わりはないということなのだろう。パウロが何歳になるまで語ればよいとか、どの地方にたどり着くまで語ればよいとか、そのような決まりがないのだ。それはなぜだろうか。目標が決まっていたら、それを目指して人は努力することができるのではないだろうか。

ところが神はパウロに明確な目標を告げなかった。ただ語り続けるようにと示されたのみであった。何か意味があってのことだろうが、それは何であろうか。目標があれば、人はその目標を達成しようと様々に思いを巡らし、あれこれと手段を講じるだろう。そうなると善し悪しは別として、その人のうちでは目標を達することが一番大切なことになってしまうのではないか。

ところで神のことばを伝えることで大切なことは何であろうか。それは伝えることそれ自体であろう。だからこそパウロや他の弟子たちは神のことばを伝えることに徹していたではないか。もし仮に神のことばを伝えることに最終目的があるとしたら、人は神のことばを伝えることそのものよりも、伝え終えるということに目を向けてしまうかもしれない。この時まで多くの人々が、弟子たちの語る神のことばによって、キリストを信じ、罪を赦され、神に立ち返ってきたではないか。もし神のことばを語り終えることがあってしまっては、人が神を知り、キリストを知る機会を失ってしまうことになるだろう。それゆえ、神はパウロに、沈黙することなく、神のことばを語り続けるように言ったのだろう。

しかし、今までの弟子たちの働きを見ていると、神のことばを伝えるには危険が伴うのも明らかであった。それは神も承知していたに違いない。そして神は事あるごとに、信徒たちを救ってきたではないか。神は神を信じる者を何の理由もなくして、苦難にあうことを許されない。恐れる必要はないという根拠がここにあるのだろう。神が恐れるなと言う時には、それは単なる励ましの言葉ではない。そこには神が共にいて守って下さるという約束が根底にあるのだろう。

しかし人は神がいるというだけで、不安を抱かずにいることができるものだろうか。確かに神さえおられるならば、人は何も恐れることはないだろう。理性ではテオピロもそれくらいのことは分かっている。しかし、時として理由は定かではないが、孤独を覚えることもある。神がエデンの園でアダムが一人でいるのは良くないと、エバを与えたように、人が孤独になるのを神は望んでおられないからだろう。そこで、神はパウロを孤立させないためにも、コリントの町に神を信じる人々を置かれたのである。

神のことばにパウロは素直に従ったのだ。彼は敵意を抱いたユダヤ人に囲まれながらも、その地になんと一年半も留まり、神のことばを伝え続けたのだ。

それにしても、神はパウロに語りかけたのだが、なぜルカはこれを残したのだろうか。もしやテオピロも神を信じる者として、神の励ましのことばを聞くべきだったのだろう。