テオピロへ 33

憎むべきパウロが一年半もの間、自由にしていたとあっては、ユダヤ人たちもそろそろ何らかの行動をとらねばと焦ったのだろう。彼ら人数を集めて、パウロを捕らえ法廷へ連れて行き、地方総督のガリオに対して訴え出た。彼らの言い分はこうであった。すなわちパウロが、ユダヤ人である彼らの律法には準じないやり方で神を拝むことを、人々に教えているということであった。

そのようなことを言われても、ローマ人であるガリオにとっては迷惑だったようだ。彼はユダヤ人たちの言うことに耳を貸そうとはしなかった。おそらくユダヤ人の信じていることや彼らの慣習については、それほど深くは知らなかったことだろうし、どうでもよかったのだろう。治安に関するものでもないし、また経済に関することでなく、ユダヤ人たちの習慣についてのものであるならば自分たちで決着をつけろと、地方総督は言い放った。他人の家の内輪もめに首を突っ込みたくなかったのだろう。そこで、彼はパウロもユダヤ人たちも、法廷から追い出してしまった。パウロにしてみれば投獄されたり虐待されたりすることもなく、幸運なことであったろう。しかし、ユダヤ人たちのやるかたない憤懣は抑えきれるものではなかった。そこで彼らは会堂の管理者であったソステネという者を捕らえて、彼を殺さなかったまでも袋叩きにしてしまった。なぜソステネはそのような目に遭わなければならなかったのだろうかと、テオピロには分からなかった。考えようによっては、彼はパウロの身代わりになったようなものであろう。ルカは彼についてはそれ以上のことは書いていなかった。テオピロの勝手な想像であるが、もしかしたらソステネはパウロの語る神のことばを聞いてキリストを信じるに至ったのかも知れない。

ソステネにとっては不運というか、不幸なこととしか言いようがない。彼はパウロの身代わり、いや、身代わりという言い方は良くないのかもしれないが、パウロに向いていた群衆の怒りを一身に受けたことに違いはないだろう。

テオピロは神の残酷な一面を見てしまったように思った。パウロを救ったがために関係のない人が痛めつけられてしまうとは、今まで奇跡を起こし信徒たちを助けた神の姿からは想像が容易でない。

その時、ソステネは何を思い、どう感じたのだろうか。残念ながら、後にも先にも彼のことはどこにも書かれていないので、真実は彼自身が知るところである。思えばルカの手紙に書かれていないことで、テオピロの気になることは今までにもたくさんあったような気がする。さて、それはそれで置いておくとして、ソステネの気持ちはどうだったのだろうか。想像するしかないのだが、彼は我が身に起こったことを嘆いただろうか、会堂管理者たる自分に暴力を振るった群衆を憎んだろうか、自分を助けようともせず傍観していた地方総督を恨んだろうか、それともすべての原因を作ったパウロに怒りを燃やしただろうか。すべてに当てはまるかもしれないし、どれにも当てはまらないかもしれない。

しかし、もし彼が神のことばを信じていたのであれば、どうであったろうか。少しくらいは自分の不運を嘆いただろうし、恨み言を言っただろうが、それだけで終わらなかったかもしれない。師と仰ぐパウロの身代わりとなって痛めつけられたにも関わらず、命が守られたことを感謝に思ったかもしれない。

とは言っても、本当はどうだったのかは分からない。あくまでも、そうだったら良いだろうという想像でしかない。

さて、ここまで考えて気付いたのだが、本当に神には残酷な面があるのだろうか。確かに厳しいところはあるだろう。しかし罪がないというと語弊があるが、過失のない人が袋叩きにされることを許される方であろうかというと、それはないのではないか。ソステネの身に起こったことは不幸ではあるが、彼にとっては乗り越えることのできる試練であり、このことを通して信仰が試されたのかもしれない。

人はいつどのようにして信仰が試されるか分からない。その時に備えて、心の準備をしておくことに早すぎることはないのかもしれない。