テオピロへ 34

パウロはコリントで出会ったアクラとプリスキラという夫婦と共にエペソへと向かった。エペソでもパウロは会堂に行っては土地のユダヤ人たちと熱く語り合った。彼らはコリントのユダヤ人たちとは違った態度で彼のことを迎えていたようだ。彼らはパウロを出来る限り長く留めようとした。おそらく彼らはパウロの語ることをもっと聞きたいと思ったのだろう。パウロは彼らに、神のみこころであるならば、再び戻ってくることを告げ、エルサレムへと向かった。アクラとプリスキラはそのままエペソに留まった。

テオピロが意外と思ったのは、パウロと入れ替えでキリストのことを人々に教えていた人物がいたということだ。さらに、彼はエルサレムから遣わされた信徒ではなかった。彼はアポロという名のユダヤ人であった。彼は聖書に通じており、そればかりかイエスについても正しく理解していたという。彼の理解はただの知識だけではなかった、彼は情熱をもって人々にイエスのことを教えていたという。どこから見ても、信徒のお手本のような人物ではないか。それに彼はヨハネのバプテスマも受けていた。

いや、ちょっと何かが違うようだ。テオピロはルカの言い方が気になった。「ただヨハネのバプテスマしか知らなかった」と言っているではないか。何かが彼に欠けていたのだろうか。さらにアクラとプリスキラの夫婦はアポロを招いて、神の道をもっと正確に教えたと書いてあるではないか。一体何がアポロに不足していたのだろうか。

さて、アポロは何かを得た後、コリントへ行こうと心に決めた。そして、コリントで彼は聖書を用いてイエスがキリストであることを訴え、ユダヤ人たちでさえ彼を議論で負かすことはできなかったという。

どうも疑問を残したままで、気分がすっきりしなかったが、テオピロはひとまずルカの手紙を読み続けることにした。

どうやらパウロとアポロは再び行き違いになったようだ。彼らが互いを意識していたかどうかは分からないが、もし二人が一緒になって行動をしたら、これは勝手な想像であるが、おそらくユダヤ人が何人集まろうとも、彼らに敵うことはなかったかもしれない。もっともそれが神の望まれたことはどうか分からないが。いや、二人が出会わなかったことは、二人が一緒になることは神のみこころに適ったことではなかったのかもしれない。

パウロはエペソに戻ってくると、何人かの弟子たちと会った。パウロは彼らに、聖霊を受けたかどうかと尋ねた。すると彼らは、聖霊を受けることなど聞いたこともないと答えた。またバプテスマについて尋ねると、彼らはヨハネのバプテスマを受けたと答えた。聖霊のことはともかくとして、バプテスマについて言えばアポロと同じではないか。

パウロはヨハネのバプテスマについて、それは悔い改めのためのものであると彼らに教えた。パウロは彼らにキリストの名によって改めてバプテスマを授けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らの上に臨んだという。エルサレムで弟子たちが聖霊に触れられたのと同じように、彼らも聖霊を受けたのだった。

ここまで読むと、アポロに欠けていたものが何であったか、テオピロは推測することができた。エペソの信徒たちがそうであったように、アポロも聖霊を受けていなかったのではないか。ルカはアクラ夫妻とアポロの会話については何も書いてないので、本当にそうであったかは分からないが、テオピロの推理もそれほど外れたものでもないだろう。

それではヨハネのバプテスマは十分ではないということなのだろうかというと、それはないだろう。アポロの働きを見ていれば、聖霊を受けてなくても、キリストのことを正しく、しかも情熱的に人々に教えていたではないか。少なくとも今のテオピロとは比べものにならない程の、信仰者としては知識や熱意を持っていたようだ。

では、聖霊を受けることで何が変わるのだろうか…。学んだことのない国の言葉で話すことなのか。預言をすることなのか。それだけなのだろうか。それは聖霊に触れられた人によってそれぞれ異なるのかもしれない。確かなことは、人は聖霊を受けると、力を得るということなのだろう。その力で、人は他国の言葉で話すこともできれば、預言をすることもできるだろうし、雄弁に神のことばを伝えることもできるのではないだろうか。