テオピロへ 36

パウロはその教えていることの内容の故に、ユダヤ人たち、特に律法学者や祭司たちから目の敵にされていた。ところがその一方で、異国人たちからは広く受け容れられていた。

なぜだろうかと考えてみた。ユダヤ人たちにとって、パウロの教え広めていることは、彼らの権威を揺るがすものであり、また彼らが長いこと守り通してきた伝統や慣習に真っ向から対立するものだった。なるほど彼らがパウロに敵意を抱く気持ちも分からぬでもない。しかし、ユダヤ人でもない人々にとっては、パウロの教えていることは、それまで聞いたことのないことであり、新鮮に思えたのかも知れない。新しいもの好きのギリシヤ人たちは積極的にパウロの話を聞こうとさえしたくらいだ。パウロの伝えていた神のことばを聞いて、それを信じるか信じないかは、人それぞれであろうが、異邦人たちは少なくとも話に対して寛容な態度は持っていたのだ。

そう考えてみると、ユダヤ人よりも異邦人の方がなかなか人が良さそうに思えてしまうのである。

ところが、異邦人たちの中でも、表立ってパウロや、パウロの伝えている神のことばに反発する人々がいたというのまた事実だった。意外なことに、彼らは銀細工師であったという。何故に銀細工師と思ってしまうが、そこにはある事情があったのだ。とは言っても、複雑なものではなくごく単純なものであった。彼らはギリシヤの女神であるアルテミスの神殿の模型を作っており、その売り上げは相当なものであったという。ところが、パウロがやってきて、本当の神は人間の手によって作られたものではなく、また人間の手によって作られたところにおさまることもないと人々の教えたものだから、それを聞いた人々が人々が神殿の模型を買うことに疑問を覚えるようになったのだろう。模型の神殿に神が住むのでなければ、そこから得られる恩恵はまるでないし、得ることが何もないのであれば、わざわざ金を出してまでそれを買う意味がないということに気付いた人々が大勢いたのかもしれない。おかげで銀細工師たちは貴重な収入源を失うことになったのだ。

そうであったとしても、パウロや神のことばを憎まずに、何か別のものを作って売ればよいではないかと考えてしまうのだが、他の細工と比べても神殿の模型を売った方が利益になったのかもしれない。それに何か新しいものを生み出すよりも、邪魔な連中を排除して今まで通りに商売をした方が楽だと考えたのかも知れない。

そこで彼らはどうしたかというと、パウロのしていることは女神アルテミスへの冒涜であるなどと、もっともなことを言っては人々を扇動して、パウロを捕らえようとした。もっとも捕らえてどうするかまでは彼らも考えていなかったかもしれない。群衆はパウロと一緒にいた信徒を捕らえて、劇場へと集まってきた。

ところが集まってきた群衆の中にはなぜ集まったかの理由を知らない者もいたという具合だった。もし人々が真剣にギリシヤの女神への冒涜であると考えていたとしたら、このような烏合の衆にはならなかったかもしれない。銀細工師たちがどれほど人々を煽り立てようとも、そもそもアルテミスは彼らの心にそれほど根付いていなかったのかもしれない。結局人々は役所から派遣された町の代表者の警告を受けると、そのまま解散してしまった。アルテミスのことよりも、まずは自分自身の身に降りかかるかもしれない災難を逃れようとしたのだろう。結局、騒ぎを引き起こした銀細工師たちもそのままどこへともなく姿を消してしまったようだ。

このような話を読んでいると、エペソに住む人々の彼らのいわゆる神々対する信仰というものがどの程度のものであったのかが分かるような気がする。そうであったから、彼らはパウロの伝える神のことばを受け容れやすかったのかもしれない。

しかし別の見方をすると、パウロの伝えていた神とキリストを受け入れた彼らの信仰というのはどのようなものなのだろうか、とテオピロは疑問に思ってしまうのだった。

もっとも、テオピロごときに人の信仰の深さを云々言うだけの権威があるわけではなかった。人の信仰というのは、神のみが知っていることであり、神が知っているだけで十分なことなのであろう。信仰は神と人との関係なのだから。