テオピロへ 39

パウロたちはエルサレムへと旅を続けた。今までは色々な場所に立ち寄っては、神のことばを伝えていた彼であったが、今回はどうやら急ぎ足だったようだ。エルサレムで苦難が彼を待ち受けていることを承知していたにもかかわらず、彼は時間を稼ぐことをせず、むしろ一日も早くエルサレムに着こうとするかのような旅であったろう。

なぜパウロはそれほどまでに急いでいたのだろうか。五旬節にはエルサレムに着きたかったとルカは伝えているが、それにしても自分だったらきっと、あれやこれやと言い訳を見つけ出してはわざと時間を掛けることだろうとテオピロは考えた。いや、それ以前に苦難が待っていると分かっているのであれば、まったく反対の方向へと逃げ出すことだろう。

そういえば、神の導きから逃げ出した預言者について読んだことがあるのを思い出した。たしかヨナという人物の話だった。彼は神に行くようにと示された地には向かわず、反対の方向に逃げ出してしまった。何も神が示された先で、苦難が彼を待ったいたわけではなくて、ただ彼がその場所に住む人々を好いていなかったという単純な理由だったような気がする。さてヨナはどうなったかというと、途中で嵐に巻き込まれ、船から投げ出され、挙げ句の果てに魚に飲み込まれてしまったという。さらにそれだけでは終わらずに、魚が彼を吐き出した場所は、なんと神が彼が行けと命じられた場所だった。

自分だったらおそらくヨナのように逃げるに違いないとテオピロは思った。

しかしそう考えたのはテオピロだけではなかったようだ。

パウロたちの乗った船が積荷の上げ下ろしをするためにツロという町に寄港した時、彼らは一週間ほどそこに滞在することになった。さて彼らはツロの町に住む信徒たちと会ったのだが、信徒たちはパウロにエルサレムに行かないように忠告したという。ツロの信徒たちは聖霊によって示されたというから、彼らの忠告というのは単なる不安な気持ちからきたものではなく、確かな根拠があったのだろう。しかし、船が出港する日が来ると、パウロは彼らと共に祈ると、彼らに別れを告げてエルサレムへの旅を続けたのだった。

これだけではない。

船旅を終えて、再び陸路旅をしていたパウロたちはカイザリアの町に着いた。するとアガボという名の預言者がパウロたちの滞在しているところへやってきたという。彼はパウロのそばに行って、パウロの着衣から帯を取り上げると、それで自らの両手両足とを縛って、パウロとそばにいた人たちに伝えた。「この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人たちに捕まり、このように縛られて、異邦人の手に渡されます。」

アガボもまた聖霊によって告げられたことであると言っている。このようなことを聞かされてしまっては、一緒にいたルカや他の同行者たちも不安に感じたに違いない。とうとう彼らもパウロにエルサレムへ行かないようにと頼んだ。パウロはそれを聞いて考えを変えるどころか、反対に彼らを叱咤するのだった。「なぜ泣いたり叫んだりして、私の気持ちを変えようとするのですか。私はキリストの御名のためであれば、エルサレムで縛られることはもとより、死ぬことも覚悟のうえです。」

誰よりもパウロ自身がエルサレムへ行くことの危険を知っていたことだろう。

エルサレムへ行くことの危険を知らされた人々は、パウロを助けたいという純粋な思いから、彼に思い留まるように頼んだに違いない。普通の人であれば、危険な場所と知りながら、出掛けるようなことはしないだろう。ましてや人々が止めろというのに、それでも行くようなことはしないだろう。テオピロは自分がパウロの立場であれば、まずエルサレムに行くことはないだろうと思った。深い理由はない。命が惜しいと思うからだ。命を落とさないまでも、危険な目には遭いたくないからだ。ひと言で言ってしまうと、怖いのである。

パウロがどのように感じていたかは誰にも分からない。しかしどうであれ、彼が恐れにとらわれていなかったことは確かであろう。彼はキリストのためであれば、命を失うことさえも受け入れるつもりだったのだから。キリストをここまで慕うだけの信仰があれば、人はいかなる恐れからも解放されるということなのかもしれない。