テオピロへ 44

ローマ皇帝に上訴することを望んだパウロは、他の囚人たちと共にローマへ向かう船に乗せられた。この旅にはルカも同行することになったようだ。もしかしたら、他の信徒やパウロの友人たちもいたかもしれない。なぜ囚人たちを乗せた船に彼らが一緒に乗船できたのか、なぜ彼らが同行することを許可されたのか、考えてみれば不思議なことである。しかし今までのことを考えてみれば、何とはなしに納得もできよう。

ローマの人々はパウロに対してどちらかというと好意を持っていたようだ。彼らの目には、パウロは彼の同胞であるはずのユダヤ人たちから不当に恨まれているように映ったことだろう。彼らにしてみれば、パウロは何の罪も犯していないのに、あたかも極悪人であるかのように恨まれていたし、何よりユダヤの王であるアグリッパでさえも、彼に何の非も見出せなかったのである。パウロに同情こそすれ、彼を憎悪する理由は何もなかったのだ。

実際パウロを護送することになったローマ軍の百人隊長も、彼に対して好感を持ったようだ。途中の寄港地では、そこに住んでいる信徒たちと会うことさえをパウロに許したというのは、その証拠でもあろう。どうも囚人というよりは、貴賓とまでは言えないかも知れないが、何やら重要な人物として扱われていたかのような印象を受ける。

何度も思うことであるが、ユダヤ人から迫害され命さえ狙われていたことを考えると、破格の待遇であると言えよう。一寸先は闇とも言うが、これはその反対と言えよう。これも単にパウロの運が良かったというわけでもなく、今まで彼を導いてきた神が彼のことを守っているからなのだろう。彼自身はいつでも命を捨てる覚悟ができていたが、まだ神は彼に何らかの働きを用意していたに違いない。パウロは神によって生かされていたのだ。そういった意味ではパウロと共にいて、彼のことを記録しているルカも然り。またルカの手紙を読んでいるテオピロも然り。神を信じている者は、いや、それを言うのであれば神を信じていない者も等しく、神によって生きることを許されているのではないだろうか。生きているからには何らかの目的や意味があるのだろう。神を信じている者にとってはなおさらそうなのではないだろうか。そのようなことに思いを巡らしていたテオピロは、キリストの言葉を思い出した。一羽の鳥さえも神の許しなしには地に落ちることがない、たしかキリストはそう言ったのではなかったか。

さて、冬を前にして海は荒れる気配を見せていた。パウロはこのまま後悔を続けることは危険であると人々に忠告したが、百人隊長をはじめとした人々は船長や航海士の言うことを聞き入れ、出港することに賛成した。彼らにしてみれば、海と船の専門家の意見を尊重したに過ぎない。パウロの言葉を受け入れなかったからと言って、彼らを責めることもできまい。誰だって彼らのようにしたことであろう。もしそこにいたら、テオピロだってそうしたかもしれないし、もしかしたらパウロと一緒にいた人々も、ことに船のことについては船長たちに賛成したかもしれない。

「この旅では、積荷はおろか、船さえも失うことになるかもしれません。そして、私たちも危険な目にあうのではないかと思います。」

誰もパウロのこの言葉を真剣に受け止めなかった。彼は素人考えからこのようなことを言ったのだろうか。それとも不安の表れだったのだろうか。これはテオピロの勝手な想像でしかないが、神が彼にこれから起こるであろうことを示されたのかもしれない。だとしたら、彼の忠告は神の忠告とも言えよう。

ところが港を後にして間もなく、パウロたちの乗った船は嵐に巻き込まれたのだった。

人々は船を軽くするため、積荷を次々と海へ投げ捨てたのだった。幾日も光の見えない海原をさまよっている時、パウロは人々を励まして言った。彼らのうちで嵐のために命を失う者は一人もいないと。これは神がパウロに与えたことばであった。たとえ人々が神を信じていなかったとしても、神を信じているパウロのゆえに、一緒にいた全ての人々の命が助かると神が約束されたのだ。

神は正義を重んじるお方であるが、寛容なお方であることを忘れてはなるまい。