終わりよければ…

昨年の世相を表す漢字として選ばれたのは「偽」であった。その理由については、今さら私が説明するまでもないだろう。それにしても、1995年に始まって以来、その年を表す漢字として選ばれる字は、どうも否定的な意味合いをもったものが多い。もっともすべてがすべてそうというわけでもない。たとえば、2005年は「愛」という字が選ばれた。しかし思い出して見ると、折しも2005年は「愛知」で「愛・地球博」が開かれた年だった。それが原因であったのだろうかと、勘ぐってしまう。そうなると、博覧会が開かれたということを除いては、他に良いことがあまりなかった年だったのだろうかなどと考えてしまう。私のように冷めた人間からしてみれば、一体全体博覧会のどこが嬉しいことなのだろうかなどと思ってしまう。しかし、そんな過去のことを考えてもしようがない。

要するに、近年、人々に印象を与え心に刻み込まれるような明るい話題がないということなのであろう。

それでは今日から始まるこの一年はどうなるのだろうか。誰しも、今年は良い年になるようにと期待をするだろう。きっと人は毎年そうやって一年を始めてきたはずだ。ところがいざ年の暮れになってみると、どうにも具合が芳しくない。どういったわけだか嫌だったことばかりが思い出されてしまうのである。

そのようなことを考えたうえでの、私の勝手な予測であるが、今年の漢字もおそらく否定的な意味合いを含んだものとなるだろう。(もちろん、はずれた方が望ましいのだが。)私が悲観的に考えているのだろうか。いや、そうではなくて現実的に考えているだけなのである。今年になってから、がらりと物の見方を変えてしまう人が人口の大半を占めることにでもならない限り無理であろう。もしくは、日本中の人々の記憶に残るような、何か良いことが起これば、話は別であるが…。

多くの人々がこの一年を満足に過ごして、気持ちよく年末を迎えてくれた方が良いのはもちろんのことである。どうすればそうすることができるのかと考えてみるのだが、とてもではないが、私がどんなに頑張ってみたところで、みんなを幸せにさせる方法など編み出せるわけがない。そもそも人を幸せにさせようなどと考えるのは、私らしくもない。人を幸せにさせる手段を考える余裕があるのならば、まずは自分自身が幸せになるにはどうすればよいのかを考えてしまう。

では、私は一年の終わりをどうすれば気持ちよく迎えることができるのだろうか。一年の最初の日に、一年の最後を考えるのも変なことかもしれないが、終わりよければすべてよし、と言うではないか。してみると、今年を良い一年としたければ、今年の暮れを喜びを感じながら迎えるかどうかに掛かっているのではと、私は思っている。

とは言っても、この一年がどんなものになるのか、私には分からない。良いことも悪いこともあるだろう、今までがそうであったように。

さて、身の回りの流れ過ぎてゆく出来事に目を向けてばかりいると、肝心のものが見え難くなってしまうこともあるのではないだろうか。時が良くても悪くても、常に変わることのない神の約束と祝福を胸に留めておくことが大事なのではないだろうか。一年を通して神に目を向けるのが難しく感じられることもあるかもしれない。それならば、一日の間だけでも神に目を向けてみるのはどうだろうか。そしてその日の終わりに、良いことがあったら、それを感謝し、悪いことがあったら、不平なり不満なりを神に正直に訴えてもよいだろうし、神はけして人を見捨てないということを思い出して感謝してもよいだろう。

一日の終わりを気持ちよく過ごす。それの繰り返しで一年を過ごせば、終わりの良い年となるだろう。