似て異なるものは、塩と砂糖

しばらく聖書のことばをテーマに書いてきたが、一通り書き終わってから思うことは、毎回必ず違うことなくこの一言に尽きる。大変に難しい。そう思うと牧師先生が毎週のように聖書からのメッセージを礼拝で人々に語るというのは、非常に大変な、このような言い方をしていいのかどうか分からないが、労働である。あ、いや、労働ではなく奉仕というのであろうか。聖書を読んで、そこに書かれていることをその当時の人々に視線に立って考え、今を生きる自分に神は何を伝えようとしているのかを知ろうとする。これは容易なことではない。完璧を目指すことなど、まずできないと言っていい。もっとも神でもないのに、神のことばを完璧に理解しようというのは、人間の思い上がりかもしれない。であれば、聖書を読むことの目的が、そこにあってはならないのだろう。さて牧師でもないのに、牧師の真似事をして聖書のことばから何かを書こうとは、間違ってはいないにしても、いや実に……責任が重く、神経を使う。牧師というのはよほどの使命感がなければできるものではないだろう。改めて牧師を尊敬せずにはいられない気持ちだ。牧師と私とは、同じようなことをやろうとしても、やはり深いところではどこか違うのであろう。似て異なるものと言えよう。

ところで見た目がそっくりで、実際は違うものと言われて、真っ先に思いつくのは、塩と砂糖である。小麦粉と片栗粉もそうかもしれないが、ここではあえて塩と砂糖にする。というのも、私の妻は塩と砂糖を間違えたことが、妻が私に告白した限りで二回ほどあるからだ。一度目は結婚したばかりの頃、私がプリンを食べたいと言ったので、彼女は気を利かして作ってくれたのだ。なかなか見た目も良く、香りも甘い、おいしそうなプリンが出来上がったので、食後のデザートに頂くことになった。ここまでは良かったのだが、食べてみると何か変なのである。そう、しょっぱいのである。何がどうなったのかは、推して知るべし、である。妻が言うには、カラメルソースを作ろうとしたのに、なかなか「砂糖」が溶けなかったというらしい。砂糖が熱に溶けないわけはないから、ここで自分の過ちに気づいたらしく、慌てて本物の「砂糖」を加えたという。気持ちは分かるし、努力も認めるが……残念。

もう一度はつい先日のことである。これも私のリクエストで、アイスティーを入れてもらったのだが、お茶が入った後で、台所からなんとも形容しがたい奇声が聞こえたのである。また何かやったなと思ったのだが、あえてこれ以上は書くまい。冷凍庫の中の最後の氷がソルティーなアイスティーを作る過程で消えてしまったので、やむなく暖かい紅茶を頂くことになった。夜は冷えるので、アイスティーを飲むなということだったのかもしれない。

主婦の妻をして勘違いをさせる塩と砂糖なのである。確かにそっくりなので見ただけではどっちがどっちか分からない。もちろん入れ物は区別してあるのだけれど。

思えば神という考えも、一般のそれと聖書の伝えるそれとは、字で表すとまったく同じだし、自分たちを超越した存在を指し示すという点では似ているが、それに対する人々の意識は随分と異なっているのではないかと思う。

日本には神様と呼ばれているものが実に多い。例えば菅原道真公は学問の神様と呼ばれているし、食の神様なるものを祭っている神社が三浦の方にはあるそうだ。京急の吊り広告でたまに見かけることがあったが、あれはなかなかインパクトがある。ちなみに地下鉄の新横浜駅を下りると、サッカー選手の足形を祭ってあるマリノス神社なるものがある。つまらんものをと思うのだが、一度だけ真剣に手を合わせている人を見たことがある。よほどのファンなのだろうと思わずにいられなかった。日本人は何か自分たちの持っていない能力なり才能なりを持っているものや、なにやら良いものをもたらしてくれるものを、とかく神様と呼んでしまう傾向にあるようだ。そう考えてみると、神は人の都合で存在しているような気がしなくもない。

聖書の伝える神とは何が違うのか。聖書の教える神とは、無から有を生み出した全知全能なる神なのである。遠い昔の人々の想像の産物ではない。そうではなく、この世界とそこに存在する全てが、神の創造の産物なのである。天地を生み出した神のみが、礼拝の対象であると聖書は教えている。神から何かを得ようというのではなく、礼拝することの結果として、神から恵みや祝福を与えられるのではないだろうか。