求めるものと与えるもの

先日のことだが、話題になっているミニノートパソコンを買った。4980円。安い。もちろん、それにはちゃんと理由がある。どんな理由かというと、一円携帯と同じで、端末機器を安く売って、回線使用料で売り上げを回収しようということである。私が買ったパソコンも同じである。パソコンを安く買う代わりに、業者指定のインターネット回線に二年間契約しないといけないのだ。計算すると、普通にパソコンを買う方が安いのだけれど、ボーナスまでまだしばらく時間があるし、まとまったお金を支払うことができないので、この価格に釣られてしまうのだ。ボーナスまで待てばいいんだろうけど、一度物欲に火がつくとなかなか抑えるのが難しい。単なる物欲だけであれば、我慢する努力をするかもしれないが、それに必要性というか利便性が絡んでくると、悩まず買うしかない。

言い訳がましく聞こえるかもしれないが、これを書くのに必要なのだからしかたがない。今まで800グラムのノートと200グラムの聖書を持ち歩かなければならかったし、おまけにノートに書かれたものは当然手書きなので、それをタイプするという手間も掛かっていた。だったらいっそのこと、900グラムのパソコンを買って、聖書が読めてワープロも使えるようにした方が、あらゆる面でよいのではないだろうか。

それにしても、世の中うまくできているものである。私が欲しいと思うものは、まずほとんどのものが手に入る。だからと言って、欲しいもの全てを我が物にすることができるかというと、それはあり得ない。買うための金がないからだ。金で幸せは買えないと良く言われるが、幸せは買えなくとも、欲しいものは何でも買えるから、正直それはそれで羨ましいと思うこともある。金がなければ幸せかというと、そうでもないだろうし。とはいっても、金持ちだった試しがないから、なんとも言えない。今後も金持ちになる予定はないので、たぶんどっちが幸せかなんて一生分かるまい。今の生活に満足しているのならば、それでよしとすべきなのだろう。贅沢を言うのでなければ、私が欲しいと思うものを市場は提供してくれるのである。十分に感謝なことではないか。パソコンが欲しければ、安く買うことができる。本が欲しければ、ブックオフで古本を買うこともできる。国内で販売されていないCDが欲しければ、アマゾンで海外から購入すればよい。もはや生産ラインからはずされてしまった愛車にあった部品が欲しければ、オークションで出品されるのを待って落札すればよい。

今の時代、我々が何かを求めれば、何かを欲すれば、世界がそれを提供してくれるのだ。聖書には、すべての良いものは神からくるというから、直接ではないにしても、我々が手にするものの多くは、神から与えられたものなのであろう。もちろん、我々を惑わしたり、誘惑したりするものは、その限りではないのかもしれないが……。まずはすべてのもを感謝してもよいのかもしれない。

しかし神が与えるものの中で、最高のものは「救い」であろう。罪からの赦しと神との平安、すなわち人の心に根ざす恐れや不安からの解放である。それを求めている人もいるだろうし、欲している人もいるだろう。また気づいていない人や、自分には必要がないと考えている人々もいるかもしれない。もしかしたら、前者より後者の方が多いかもしれない。私自身もかつてはそのようなことをまるで気にしない者だった。いわゆる心の中の満たされぬ思いというものを感じたことがなかったわけではないが、この虚ろな気持ちはなんであろうかと真剣に自問するまでには至らなかった。またそれを満たそうとも考えなかった。そのような私がなぜ神の救いを受けようと決めるに至ったかは、ここでは書くまい。

人々はあれこれ求め、それを手に入れる。しかし、そうすることで人々は心のどこかで感じている隙間を埋めることができるのであろうか。何かを真新しいものを手にすると、それに目が向いている間は、満たされぬ思いを忘れることができよう。しかし、それは所詮忘れているだけであって、その隙間が消えたわけではない。やがて時が経つと、何かが足りないことに再び気付くだろう。それが満たされない限り、恐れや不安が常に付きまとうのだ。どれだけ欲しいものを手に入れたとしても、心の隙間をそれで埋めるのは無理だろう。なぜならそれを埋めることができるのは、神の救いだけなのだから。