痛い痛い口内炎

最近、大発見をした。子供は食事をしても口の中を噛まない。

……残念ながらそれを証明することはできないが、そうに違いない、と思う。なぜならちょっとしたことで泣いてしまう我が家の娘たちが、唇を噛んだだの頬っぺたの内側を噛んだだのと泣き叫んだことが、今までに一度もないからだ。まったく大人の私でも涙が出そうな痛みであるから、まずうちの子供たちが我慢できるわけがない。

私だけではないはずだ。誰でも食事をしているときや居眠りの最中に、口の中を噛んでしまったことがあるだろう。それも一度や二度ではないはずだ。痛っ!と感じた時にはもう手遅れである。口中に鉄のような血の味が広がってしまうので、これもまた気持ち悪い。実際に見たことはないが、きっと火山のてっぺんから溶岩が流れ出るように、歯型がついてクレーターのようになった傷口から血が出ているに違いない。幸いなことに、口の中の治癒力は高いのか、出血はすぐに収まるし、痛みも徐々に退いていくので助かる。このような体を与えて下さった神に感謝せずにはいられない。

さて、不運にも自ら自分の口の中をかじってしまったところは、ほぼ間違いなく口内炎になってしまうのである。ビタミン不足や疲労が原因で口内炎になるならまだしも、自分で噛み付いたところが口内炎になってしまうのは実に憎たらしい。何と言っても自分自身を責めるしかないのだから。

私はと言えば、先日寝ぼけて唇を噛んでしまったばかりだ。文字通り上の歯と下の歯で、あたかも洗濯ばさみで挟むかのように、自分の唇を噛んでしまったのである。しかも半分夢の中でのことなので力の加減というものがまるでできなかった。(ちなみに私は寝ぼけてタンスを蹴っ飛ばして、翌朝目覚めたら足の先から血を流していたこともある。)当然、上の歯で噛まれたところと、下の歯で噛まれたところの二箇所が傷になってしまい、翌日には立派な口内炎が二つ前後に並んで出来てしまったのだ。

口内炎の厄介なところは、そこだけ出っ張ってしまうから、ちょっと油断をすると懲りずにぴったし同じところを噛んでしまうのだ。これが何を意味するかと言うと、治りそうでなかなか治らないという悪循環に陥ってしまうのである。これを四五回繰り返して、ようやく学習し、並々ならぬ注意深さで食事をすることで、やっと傷が癒えるのだ。

つらつら考えていると、口内炎というやつは、どことなく人間と罪の関係に似てるような気がしなくもない。

よほどの変わり者でない限り、誰も自分の唇を噛もうとは思わないだろう。悔しさや悲しさに耐えようと、唇を噛むこともあるだろうがあれは別である。あれは感情を抑えようとするための行為であり、ある程度力の加減があるからだ。意図せずに唇を噛むのとは別物である。もちろん遠慮しないだけに後者の痛みの度合いは半端ではない。人の罪というのもまた似たようなものであろうか。普通の人であれば、意図的に悪いことをしてやろうなどとは思うまい。人は生まれながらにして罪人であると聖書は言うが、人というのは好んで罪を犯す存在である、という意味ではないだろう。むしろ、無意識のうちに罪を犯してしまうものであろう。人を憎んではいけないというが、気づいてみると誰かを憎んでいたり、とか。罪の後味は、口に広がる血の味よりも、気分が悪くなるものであろう。

そして人は罪を繰り返してしまうのである。一度罪の痛みと後味の悪さを知ってしまうと同じ過ちを犯すまいと多くの人は気をつけるであろう。人を憎んではならないと思いつつ、人を羨んではならないと思いつつ、ちょっとでも気を緩めようものなら再び同じ過ちを犯してしまうのである。罪を悔い、以前のような失敗は起こすまい自らを戒めるものの、気を抜いてしまうと再び同じ過ちを犯す。これの繰り返しである。口内炎であれば、何度か失敗した後、体が覚えるのか、注意力が増すのか、時間の経過がそうさせるのか正確なことは分からないが、時間が掛かったとしても、最後に傷は完全に癒されるのだ。口内炎と罪の違いはここにあるだろう。つまり罪の痛みは人の努力や時間の経過では癒されないのである。罪の前に人は無力な存在なのだ。であればこそ、我々は罪のない、すなわち罪の力を超えたキリストに期待しようではないか。